冬馬さんは頭を掻きながら私たちの出会いについて語り出した。
「この部屋に3月末に引っ越してきた話はしたよね? 実は、その時に引っ越し屋のバイトとしてここに来た未来を見て、俺が一目惚れして⋯⋯」
私は彼が言い終わらない内に居た堪れなくなった。
「最低ですね⋯⋯」
「えっ? 未来⋯⋯何か思い出したんじゃ」
私は苦しそうな顔をした彼にゆっくりと首を振った。
私は仕事中に彼に声を掛けられ舞い上がったのだろう。
冬馬さんのような素敵な方は私の人生で初めて見る。
それでも、仕事中ならば自分の業務に集中すべきだし、お客様はお客様として見るべきで恋愛感情を抱くなど決して許される事ではない。
「自分の軽薄さに呆れたんです。本当にお恥ずかしい限りです。実は情けない事に10年も引きこもっていました。穴倉から出て来て、太陽のように光り輝く冬馬さんを見てお声を掛けて頂き舞い上がったんだと思います」
「えっ? いや、俺が一方的に言い寄っただけだから」
誰もが惹かれそうな魅力的な彼が、私のような何もない女にそんな感情を抱く訳がない。
「冬馬さん、実は精密検査の時に医者と看護師が話しているのを聞いちゃったんです。私のこの傷は冬馬さんのストーカーに刺されたものだって⋯⋯罪悪感を感じて今一緒にいてくれているんですよね」
本当は退院する前には、なぜ彼のような素敵な人が自分と一緒にいてくれるのかに気がついていた。
それでも、母もいなくなり寂しくて一緒にいてくれる彼の優しさに甘えてしまった。
「確かに、未来が俺のストーカーに刺されのは本当だ。だけど、それと俺が未来を好きだって話は別なんだ」
「傷のことは気にしないでください。背中なので気になりません。私、明日には自分の家に戻ります。寂しさに耐えられないからって冬馬さんの優しさに漬け込んでいる自分が許せないんです!」
興奮して大きな声を出してしまった。
私は不倫の末に生まれた子だ。
それゆえに、後ろ指を指されるような辛い経験をしてきた。
私がダメな時黙って寄り添ってくれた母の優しさには感謝しているが、不倫していた事はやはり軽蔑している。
不倫は最低の不道徳な行為で、人の優しさに漬け込むのもしてはいけない事だ。
「優しくなんかない。俺は⋯⋯」
冬馬さんの顔が本当に苦しそうだ。
「私、結婚前に男性と暮らすようなフシダラな女にはなりたくないんです。明日には家に戻ろうと思います。冬馬さんも私の怪我に責任は感じないでください」
彼の罪悪感を利用したくはなかった。
「未来のどこがフシダラなんだよ⋯⋯」
私に口付けをしようとしてくる彼をそっと避けた。
婚前交渉が一般的に普通になされる世の中かもしれないが、私には無理だ。
「ごめんなさい。私、本当はキスとかそれ以上のことは絶対に結婚する人としかしたくないんです。私は不倫の末できた子で父親がいなくて悲しい思いをしました。だから結婚して子供の父親になってくれる方だけと、そういう事をしたいと思っております。寂しいからと言って、冬馬さんに一時縋ってしまった自分を恥じています」
彼が素敵だからと言って、キス以上の事をしてしまって万が一子供ができたらと考える。
私と彼はどう見ても不釣り合いだ。
彼が私を好きだと言ってくれるのは嬉しいが、結婚まで考えた付き合いではないだろう。
子供ができたら、私は一人でも必ず産む。
そして、私は自分の子供に自分と同じ寂しさを味合わせることになるのだ。
「⋯⋯俺は未来と結婚を考えている。俺は未来と結婚したい!」
突然、プロポーズをされて驚いたが、冬馬さんの瞳に迷いが見えた。
「⋯⋯冬馬さんは優し過ぎです。傷の責任なんて感じないでください。冬馬さんには私より相応しい素敵な方がいるはずです」
「なんで、そんなこと言うんだよ。俺が未来と一緒にいたいって言ってるのに、一緒にいてくれよ」
今にも泣き出しそうな悲痛な声で私に言ってくる彼を突き放す事はできなかった。私が天涯孤独なことを知って心配してくれているのだろう。
「私と一緒にいたいなんて言ってくれるのは冬馬さんだけです。じゃあ、1週間だけここでお世話にならせてください」
「ありがとう」
冬馬さんが嬉しそうに私に軽くキスしてくる。
私は動揺して彼を押してしまった。
「正式に結婚するまではこれ以上はしないから、キスだけは許してくれない?」
手を合わせてお願いのポーズをされる。
私より年上だろう大人の彼が可愛く見えた。
「わ、分かりました。今日はお休みなさい」
真っ赤になった顔を隠すようにシーツを頭まで被る。
「お休み、未来⋯⋯。明日、どうしても午前中休日出勤しなくちゃいけなくてさ、お昼には帰れると思うからデートしよ」
シーツ越しに彼の優しく甘い誘いを受けた。
♢♢♢
今日は土曜日だが、冬馬さんはスーツ姿に着替えて出勤だ。
本当は彼の事をもっと知りたいから、何の仕事をしているのか聞きたい。
でも、それは私が彼の事を忘れているという事実を彼に想起させてしまう。
(副社長って言われてた気がするけど⋯⋯)
「今日の朝食も美味しかった。昨晩は未来も食べたかったな⋯⋯」
玄関までお見送りをする時に言われた言葉に、私は思わず俯いてしまった。
「ごめん、そんな顔させたかったんじゃないんだ。もう、言わないから⋯⋯やばい、今から未来とのデートが楽しみで仕事行きたくないわ」
彼に気を遣わせてしまい本当に申し訳ない気がしてきた。
「私、お昼作って待っていますね。冬馬さんお昼は何を食べたいですか?」
「えっ? 作ってくれるの?」
冬馬さんが驚いた顔をしている。
デートと言っていたから外食予定だったのかもしれない。
でも、お世話になっているので、少しでも彼の役に立ちたい。
「はい、買い物にも行ってくるので、希望を教えてください」
「じゃあ、ハンバーグで! カードと現金渡しておくね」
冬馬さんがブラックカードと札束を渡して来た。
完璧で美しい男である彼がハンバーグが食べたいなどと子供っぽいおねだりをしてくる。
私は何だか夢の中にいるみたいで頭がおかしくなりそうだった。
「あの⋯⋯そんな、私、自分のお金あります」
「暗証番号を教えるから耳貸して」
私は突然、耳元に近づいてきた彼の吐息に震え上がった。
「⋯⋯0906」
聞こえた数字に思わず驚く。
「私の誕生日です!」
「じゃあ、このカードは未来が使わないとね。行ってきます」
結局、私はブラックカードと札束を受け取ってしまった。
(誕生日を暗証番号ってやっちゃいけないやつなんじゃ⋯⋯)
「あっ! 待ってください。冬馬さんロープを忘れてます」
「それは、今日はいらないかな。また、後でね。いい子にしてるんだよ」
冬馬さんは苦笑すると、私の額にキスを落として手をひらひらと振って出ていった。
私は部屋を掃除すると、まずは本屋に出かけた。
高卒認定試験の本を手に取り、パラパラと捲る。
「あれっ?」
私は自分の脳に変化が起きていることに気がついた。
捲るだけで、頭に視界に映った文字が映像のように入ってくる。
さらには、その内容を一瞬で理解できた。
まるで脳がスーパーコンピューターに変化したようだ。
本を買おうと思ったが、全て内容が頭に入ってしまったので必要なくなってしまった。
その後、スーパーに行って買い物を続ける。
「挽き肉と、卵、パン粉、玉ねぎと⋯⋯」
目に映った成分表示を脳が吸い込んで記憶として残っていくのを感じた。
価格も頭に残っていて、瞬時に計算できる。
(5875円かな⋯⋯)
「5875円になります」
レジの店員さんに言われ、財布を出す。
結局、私は彼から預かったブラックカードと現金は使わず、自分の手持ちのお金を使った。
マンションに戻り、エレベーターホールでエレベーターが来るのを待つ。
私が自分の脳の異常事態について病院に相談しに行こうかと考えていた時、私が最も会いたくない2人と遭遇した。
「嘘ー! 中学から学校に来なくなった桜田さんだよね。こんな所で何してんの?」
中学時代のイジメの首謀者である鈴村楓が、イジメを激化させる原因となった江夏爽太の腕に絡みつきながら勝ち誇った顔で話し掛けて来た。