引きこもり歴10年。
桜田未来(みく)24歳は外に出なければならなくなった。
女手ひとつで育ててくれた母親が亡くなった。
母は不倫の末、私を身籠り未婚の母となった。私は母のような日陰の存在になりたくなくなかった。
人一倍勉強を頑張り、不道徳な事は絶対しないように真面目に生きた。
中学2年生の秋、私の人生は一変した。
優等生ブリが鼻につき地元の名士を父に持つ鈴村楓(かえで)に目をつけられた上に、彼女が好意を寄せていた江夏爽太(そうた)に私が告白された事でイジメは犯罪レベルにまで激化した。
私はクラス全体を巻き込んだ陰湿なイジメにより学校に行けなくなり、そのまま鬱になり14歳で引きこもりになった。
優等生だった私の進路は家事手伝い。
母が外に出られなくなった私を非難する事はなかった。
母は心労と過労で亡くなった。私は一切の親孝行をする機会を失った。
外に出なければならなくなったのは生きる為だ。
私がいなくなっても誰も悲しまない。夢もあった気がするが今の私にはきっと叶えられない。私は何の為に生きようとしてるのか。
♢♢♢
最終学歴、中卒の私に世間は厳しかった。
高校入学を機会に外に出ればよかったのに、その当時の私は完全に無気力だった。
中卒の私にできるのはアルバイトくらいだ。
3月末で繁忙期ということで、私は引っ越し屋のアルバイトをした。
私には強過ぎる光が容赦なく私の網膜を攻撃してくる。
久しぶりの外は日差しがとても眩しい以上に暑くて、段ボールを抱えた手がプルプルする。
繁忙期という事で、引っ越しが立て込んでいるらしく社員1人にアルバイト3人だ。
タワーマンションのペントハウスに引っ越す、城ヶ崎冬馬(とうま)という方はかなりのお金持ちなのだろう。
駅直結のタワーマンションの最上階のペントハウスなど間違いなく最低でも3億はする。
繁忙期という事もあり引っ越し代金だけで150万円だ。
そのキリの良い金額は一円を忍ぶ生活をしている私を惨めにした。
「うぅ⋯⋯重い⋯⋯」
私はせっせと段ボールをトラックから出した。
そもそも、家具の組み立てなどできない。
それは私以外のバイトの2人も同じで、社員の1人だけがやっている。
私はこの社員の澤田優斗が怖い。
屈むたびに背中に刺青があるのが見える。
髪の毛もかなり明るく染めていて見た目がチンピラみたいだ。
「テキパキ動けよ。まじ、使えねえな。お前!」
澤田に冷ややかな声で注意される。
はっきり言って彼はカタギの人間には見えない。
それなのに、大手引っ越し会社の正社員になれている。
私は自分の空白の10年を情け無く思い、ため息をついた。
最上階の52階の部屋に着くと、気だるそうな黒髪の男がスマートフォンを弄りながら私たちを見ていた。彼がこの部屋の主になる城ヶ崎冬馬だ。身長も高くてすらっとしていて精悍な顔立ちをしている。お金もあってルックスも良いなんて随分と恵まれた方だ。
「養生を済ませましたので、只今より荷物を運び入れます」
澤田の声かけに顔も上げずに城ヶ崎が頷く。
「4人しかいないの? タワマンは基本作業員5人だって聞いてたけれど?」
「すみません。繁忙期ですので」
澤田は城ヶ崎さんの言葉に貼り付けたような笑顔で頭を下げる。
ふと、澤田の持っている引っ越しの契約の控えを見ると作業人数は5人とあった。
「あの⋯⋯作業人数5人分で料金頂いてるんじゃ⋯⋯」
私は余計な事を言ったらしく、澤田は睨みつけてくる。
「城ヶ崎様、この4人で5人分働きますのでご安心ください。少数精鋭です」
澤田が取り繕うように言った言葉に城ヶ崎さんは鼻で笑った。
「全員、使えなそうだけど?」
城ヶ崎さんの冷ややかな言葉に澤田は気持ちの悪い笑顔のまま頭を下げると、私を引きずって業務用エレベーターのところに連れて行った。
ドスン!
そこで、突然胸に飛び蹴りを喰らう。
「いたっ!」
「てめえ、余計な事言ってるんじゃねえよ。バイトの癖に」
思わず私はその場に蹲った。
後から来た他のバイトの子たちが私を一瞥しすると、黙々とエレベーターに乗って下に降りて仕事をしだす。
しばらく動けなく蹲っていると、頭上から拳骨された。
あまりの痛みにくらくらする。
「お前、金貰ってるんだから働けよ。この社会のド底辺が!」
顔を上げると鬼のような顔をした澤田がいた。
「底辺掛ける高さ割る2⋯⋯」
私な思わず学生時代馴染んだ公式を呟いてた。
「なんだよ、台形の公式か? きもっ」
学生時代まともに勉強などして来なかっただろう人間にキモい底辺人間扱いされた事に笑えてくる。
私はスッと立ち上がると、黙々と再びダンボールを運び始めた。
すれ違うバイトの2人の男女は私を横目で見るだけで、何も言わない。
よく見ると口元が笑っている。
こういうイジメの傍観者みたいな人間が一番嫌いだ。
澤田が私にターゲットにしている間は自分たちの順番は回って来ないから、高みの見物をしているのだろう。
外に出ると傷つく事はわかっていたから出たくなかった。
「澤田さん、照明の前に音響をつけないと⋯⋯」
段ボールを足元に置いて台座にし、照明を天井に取り付けている澤田に話し掛ける。
澤田は突然の声かけに驚いたのか、照明を床に落とした。
その瞬間、照明の端が小さな音を立てて割れた。
(弁償しなきゃだ⋯⋯)
澤田は私の髪を引っ張り、耳元で囁いた。
「お前が話しかけるからだぞ。壊したことは黙ってろ。全く、照明の上に音響仕込むとか金持ちはムカつくな⋯⋯」
本来ならば家具を壊したら会社に報告して、弁償しなければならない。
澤田は隠蔽しようとしている。
後ろを見ると隣の部屋で城ヶ崎さんは何処かに電話を掛けていた。
「弁償は会社持ちですよね。報告義務があるかと⋯⋯」
「うるせえんだよ。バイトの癖に。俺が怒られるだろうが!」
私は澤田から今度は腹パンをされて蹲った。
私が間違っているんだろうか。
中学時代のイジメの発端も、部活帰りに買い食いしていた鈴村楓たちを目撃して先生に報告したからだった。
でも、私は見過ごせない。
ちょうど、城ヶ崎さんが電話を切ってこちらを見ていた。私は彼に駆け寄った。
「照明を一部破損してしまいました。弁償させて頂くのにお時間頂けるでしょうか?」
頭を下げた私の上から冷ややかな声がした。
「弁償? 簡単に言うね。それ、デザイナーにオーダーメイドした一点ものの照明なんだけど」
「城ヶ崎様、失礼致します。バイトがなんだか勘違いしているようです。こちらの照明ですが、元々破損箇所があったようです。出発地の作業員の確認が疎かだったようで、報告漏れですね」
淡々と嘘を吐く澤田にゾッとした。平気で自分を守る為に真実を捻じ曲げる人間。10年経っても外の世界は悪意で満ちていた。
「さっき、床に照明落としたの見てたよ。澤田さんだっけ? 弁護士の俺の前で良くそんな嘘つけるね。お前、破滅させるよ」
城ヶ崎さんの言葉に、澤田は膝をつき頭を床に擦り付け土下座をはじめた。
「1日中働いても雀の涙のような給与です。今度、妻に子供も生まれるっていうのに⋯⋯」
唐突な演技くさい泣き落としを見て私は固まってしまった。
(子供? 嘘か本当か分からないけど、こんな暴力的な人に子供?)
定職につき結婚して子供が産まれる。10年前の私は当たり前に将来そんな未来が来る事を想像していた。でも、今はそんな未来が全く想像できない。目の前の嘘ばかりつく狡い男が、そんな幸せを持ってるのが信じられない。
「じゃあ、作業終了後にこの子置いていってくれたら見逃してやるよ」
急に腕を引かれ、城ヶ崎さんに抱き寄せられる。そんな事を男性からされた事がなくて心臓が口から飛び出しそうだ。
「あ、ありがとうございます」
澤田は立ち上がり、颯爽と作業の続きに取り掛かかる。
彼は当たり前のように、私を城ヶ崎さんに引き渡す約束をした。
その後、澤田は無事に城ヶ崎さんから作業終了のサインを貰うと私を置いて去って行った。
私は予想外の状況にただ固まるしかなかった。きっと、澤田は会社にバイトが仕事途中に離脱したと報告する。反論しに行きたいが、バイトの私より会社は社員の彼を守りそうだ。
城ヶ崎さんは私と部屋に2人きりになると屈んで私の上着をめくってくる。
「な、何をなさるのですか?」
「何をなさるのですか?って、診察⋯⋯さっき腹殴られてたでしょ」
城ヶ崎さんの言葉に首を傾けていると、私はいつの間にか万歳をさせられ上着を脱がされていた。思わず胸を慌てて両手で隠す。
「そんな意識されると困っちゃうな。俺、医者だから念の為に診察したいだけなのに。胸が痛いの?」
彼はくすくすと上品に笑っていた。
突然の出来事に思考回路がショートしそうになる。
「医者? 確かに胸はあの社員に飛び蹴りされたので痛いです」
確か先程は彼は自分を弁護士だと言っていたはずだ。タワーマンションのペントハウスに住めるような人だから、それなりの職業の方だろう。社会的信用もあるから、おかしい事はしないはずだ。
「心配だよ。胸は大切な場所だからね。医者としてちゃんと診察しなきゃ」
柔和な笑顔で私の胸を隠す手を外そうとする彼は終始楽しそうだった。