邪神に触れた瞬間、
あらゆる生命の記憶が、感情が、呪いが――宇宙のそれと比べればあまりに儚い時間をかけて
彼の自我は限りなく縮小化され、大海の波間に浮かぶ木片に等しい、果てしない虚無の境地を今やたゆたっていた。
――わからない。
――落ちていく。流れていく。すべてが。何が。わからない。
――わからない。暗闇。見えない。何も。
――溶ける。消える。すべて。ひとつに。わからない。わからない。
『……み』
『……るみ』
『……まるみ』
「円巳!!」
声が聞こえた。
意味も理由もわからない。
誰が、誰を呼んでいるのかもわからない――呼び声。
ただ……ただそこに、ほんのひとすじの光を見た気がした。
―――――――――――――――――――
スキル【蜻シ縺ウ螢ー】は無効化されています
スキル【譌ァ謾ッ驟崎?】は無効化されています
スキル【繝ォ繝ォ繧、繧ィ】は無効化されています
…………
―――――――――――――――――――
「やった……のか」
円巳が意識を取り戻した時、その手は魔導書をとらえていた。
視界には青白い文字列が光っている。
――頭がでたらめに痛んだ。円巳の記憶は、邪神に触れた瞬間だけ針が飛んだように失われていた。
それは彼にとって、何よりの幸運だっただろう。
「マルミ! 逃げろっ!」
メルトの叫びにふと周囲を見回すと、円巳を取り囲むように邪神の体表から触手の群れが伸び、今にも襲いかかろうとしていた。
鎧を解除した彼ではひとたまりもない。
「しまっ……」
やられる――。
そう思った瞬間、まばゆい閃光が円巳の眼前で炸裂した。
触手の群れが根こそぎ吹き飛ばされる。
「円巳、本を持ってこっちに!」
声の方を見ると、アーウィルにまたがった帆波が手を差し伸べていた。
円巳は魔導書を鷲掴みにし、一気に邪神の体表から引っ剥がすと、後部シートに飛び乗った。
「これは食べられた人たちの分よっ!!」
帆波がハンドル付近のスイッチを押すと、一対の光球がアーウィルのフロントカウルから発射された。
――ズドドドドォォン!!
それらは邪神に着弾するや連鎖的な爆発を起こし、体を大きく抉った。
タキオン魚雷。長距離航行用のタキオン粒子を圧縮して発射する、アーウィルの切り札である。
「マルミ、魔導書をこっちに!」
「了解!」
円巳が投げ渡した魔導書を受け取ると、メルトはすぐさま見開かれたページを邪神へ向けた。
「
メルトが詠唱を終え、魔導書を閉じたとき、そこにはすでに天を突いていた黒い怪物の姿はなかった。
静けさの中、瓦礫の上を乾いた風が吹き抜け、木々の梢をカサカサと鳴らしている。
まるで邪神など最初から存在せず――白日の下で垣間見た悪夢だったかのように。
「帆波、さっきは本当に助かった。……けど、いつの間にアーウィルの操縦を?」
「学園を出たときと同じく、自動操縦よ。やったのは武器の発射だけ。AIが独自判断で火器を使えないよう、ロックがかかってるのよ。だから大したことはしてないわ」
「いやいや、そんなことはないぞ」
二人を見上げながら口を挟んだのはメルトだ。
「アーウィルのホバリングはかなり繊細でな、ぶっつけ本番で乗りこなすのは容易なことじゃない。ホナミ、きみは本当に優れた冒険者だ。よかったら、正式にわたしの仲間に加わってほしい」
メルトが差し出した手を、帆波はしっかりと握り返した。
「ここまできたら、どこまでだって付き合いますよ。ただし、メルトさんや死神のこと、ちゃんと教えてくれたら……という条件つきです」
帆波の瞳をまっすぐに見つめてメルトは答えた。
「わかった。すべて話そう」
その時、森の向こうから聞き覚えのあるプロペラ音が響いてきた。
異変を察知した国衛軍がようやくお出ましのようだ。
「やれやれ……またあんな目に遭うのはごめんだな。場所を変えよう」
生存者や犠牲者の後始末は彼らに任せるしかない。
アーウィルの運転席にはメルト、後部シートに帆波、(普段は格納されている)サイドカー部分には円巳が乗り込んだ。
迷彩機能がONになり、外部からは不可視となったマシンが、荒れ果てた施設から人知れず走り去っていった。
月が空にかかる頃、メルトの提案で三人はある山の中腹にテントを構えていた。
円巳と帆波をこれ以上アーウィル内でカンヅメにするのは可哀想だろうという気遣いが半分、せっかくやってきた地球の自然を少しでも楽しみたいというわがままが半分だった。機材はもちろんアーウィルの倉庫から出てきたものだが。
「さて、何から話そうか」
焚き火がぱちぱちと音を立て、オレンジ色の光が夜闇に揺らめく。
星を数えるように空を仰ぎながら、メルトはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「3000年前、広大な宇宙の――ほんとにイヤになるほどバカでっかいその中に、砂粒ほどの存在感もない、ちっぽけな小惑星が浮かんでた。その星の上で、わたしは唐突に目を覚ましたんだ。自分が何処から来たのかも、何者なのかも知らず――」