四方を見渡しても生活感の無いその部屋の中に、浴室のシャワーから出ている水の音だけがドアに遮られ籠って響き渡っている。一方で睦美専用のコンサートホールと化した小さな浴室内では、降り注ぐ数多の水による演奏会の真っ最中だ。そこで奏でられた音色は癒しの波形となり、それが彼女を優しく包み込みながら、やり場のない不安をシャワーから出る水と共に洗い流してくれていた。
「いや、そんないいものじゃないでしょ……シャワーの音って」
『睦美さん、知らないんすか? シャワーから出る水の音には、赤ちゃんが泣き止むくらいのリラックス効果があるんすよ?』
「へー、そうなんだ……って、ちょっと待って!? 君、今どこに居るのっ!」
『どこと言われても困るっすねぇ……自分でも分からないっすから』
「そうじゃなくって! 見てるの? 見えてるの? 今の私の姿!」
『えーっと、見えてると言ったら怒るっすか?』
「――!? 嘘っ! 変態っ! 見るなぁぁぁ!」
『ひどい言われようっすねぇ……見たくて見てる訳でもないんすけど……』
「最低っ!」
今までの平穏が嘘のように崩れ去っていく……そう、睦美は今怒りと恥ずかしさで我を失っているかのようだった。それも仕方のないことなのだろう、今までに無かった状況によって沸き起こる羞恥心が自分を襲っているのだから。
「うっさい! ちょっと待ってて! ゆっくり話聞かせて貰うから!」
そう言うと同時に睦美は、全身にバスタオルを巻いた状態で慌てて浴室から飛び出してきた。ちゃんと身体を拭いていないため、フローリングには水滴が点々と足跡を残している。
「フローリングが濡れてるのとか、そんなの今はどうでもいいのっ!」
『――はい』
「今まではさぁ、お風呂に入ってるときは殆ど語らなかったじゃない? 語ったとしても、浴室の外の状況を伝えただけ……でも! 今のは明らかに中の状況を語ってたからおかしいと思ったの!」
『……お言葉ですが、以前にもお話したっすよ? 睦美さんの姿と睦美さんが見てるものは自分にも見えてるって』
「そんな昔のこと覚えてないよ! 問題なのは、なんで今になってあんな語り方して伝えて来たのかだよ! 今まで通りなら気付かなかったのに!」
『それはっすねぇ……睦美さんが変わるって断言したから、自分も変えてみようかと思ったんすよ。今までに無かった形で変化をもたらそうかと……』
「その優しさは嬉しいけど、もっと別のやり方があるでしょ!」
『――すみませんでした。以後、そういったセンシティブな部分には気を付けるっす!』
「はぁ……。意識したら恥ずかしくて、もうお風呂に入れないじゃない……」
繰り返される日常が生み出す慣れとは恐ろしいもので、初めは意識していたにも関わらず、気付かないうちに害のないものとして受け入れてしまう。そんな慣れ親しんだ日常の一幕が崩壊した今、新しい日常が始まった記念すべき瞬間だったのかもしれない。
「本当に反省してる? 誰のせいでそうなったのよ……もうっ!」
『ほら、自分見えない存在なんで……気にしても仕方ないじゃないっすか』
「うっさい! 今後、お風呂の時は絶対に語るの禁止だからね!」
『了解っす!』
「それにしても、見えない存在かぁ……そこに居るって分かればいいんだけどねぇ」
睦美は現状の打開のために何かを考え始めた。こういうときの睦美は大抵ろくでもない発想を持ち出してくるのだ。以前にも似た状況があったのだが、その時は睦美が描いた謎の人物像(おそらく理想のイケメン)の絵を壁に貼り、それと話を始めたことがあったのだ。余談になるが、睦美はアニメのイラストを描くのが意外と上手いのだ。
「嫌な事思い出させないでよ……って、それだっ! 要は目に見える本体があればいいのよ!」
そう言うや否や、睦美は部屋の中で何かを探し始めた。生活感が無いほど綺麗に片付けられた部屋の中から目的の物を見つけ出すのは難しくなかったようで、すぐにそれを持って戻ってきた。その手の中にあったのは、ぶさ可愛い猫のキャラクターのぬいぐるみだった。
「これを君だと思うことにするよ」
『いや、マジで言ってるんすか? 自分、それなんすか?』
「そうだよー、可愛いでしょ。これなら置いた所に居るって思えるからね」
こうなると誰にも止められないのが睦美の強さなのかもしれない。そうやって自分を守り抜いてきたのだ……今までの苦境を一人で乗り越えて来たからこそ、自然と身に付いた自己防衛の為の特化スキルといったところだろうか。
「それ褒めてるの? しかも特化スキルって……」
『褒めてるっすよ? ちなみにスキル名は[要害堅固]っす!』
「いやいや、難攻不落のめんどくさい人みたいになってるじゃない……」
少し不服そうな面持ちでそう言うと睦美は、そのぬいぐるみを部屋の奥にあるパソコンデスクの上に置いた。見渡す限りシンプルで生活感が無かった部屋の中に、1か所だけではあるが光が差したように思えなくはない。そのぬいぐるみは、惰性での生活から抜け出すための反撃の狼煙になることだろう。
「生活感が無い部屋って言わないでよ……でも、反撃の狼煙かぁ、なんかカッコいいね!」
『どんな時でもモチベーションは大事っすからね! 語りも一緒っすよ』
「でも、認めたってことだよね? そのぬいぐるみを本体にすることを」
『……逆にそれでいいんすか? ぬいぐるみと話す痛い子になっちゃうっすよ?』
「どうせ誰にも見られてないんだから、お風呂の中を覗かれてると思うよりいいよ」
『……自分の負けっす。もう、それでいいっす』
「それじゃ、これからも宜しくね!」
睦美はぬいぐるみの頭の部分を撫でながら楽しげにそう言った。その姿は、まるでペットをあやしているかのようにも見えなくはなかった。一人暮らしの彼女にしてみれば、目に見えることで家族が増えたような感覚でもあったのかもしれない。
『――ところで睦美さん、そろそろ服着ませんか?』
「それ、ぬいぐるみが言うセリフじゃないよね……可愛くないなぁ」
『いやいや、自分はそのままっすからね!』
「あははっ! 分かってるって!」
こうして、七瀬家に新しい住人[ぶさ可愛い猫のぬいぐるみ]が加わったのだった。