睦美の仕事は、この営業所内での内勤業務だ。電話対応に見積もり、発注手配や事務処理も含むと、それなりに忙しい毎日がここにはある。何かに集中し続けているほうが余計なことを気にしなくていい分、睦美にとっては好都合だった……が、その日常に崩壊の危機が近づいていた。
「新入社員ってことは、私が面倒を見ないといけないわけ?」
無意識の中で口にしてしまったその一言は当然の疑問である。新入社員が研修を終えて職場に配属されてきても、実際の業務については何も知らないのだ。誰かが仕事に必要な常識やノウハウを教えながら、実際に経験させて面倒を見る必要がある。面倒を見ると言っても誰でもいいわけではない……そう、同じ業務にあたる経験者以外に適任者は存在しない。
(どう考えても私以外、他に誰もいないよね……最悪だ)
「七瀬さん、おはよう! 何か考え事?」
「――⁉ おはようございます!」
頬杖をついて考え込んでいた睦美を気にしてか、営業所長の岸永が声をかけてきた。
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(所長なら全部知ってるはず……聞いてみるか)
「所長に一つお聞きしたいことがあるのですが……」
もう聞かずにはいれなかった……。秦の言ったことが正しい確証はないのだ。
「ん? 俺で答えられることならいいんだけど」
「新入社員のことなのですが、この営業所にも配属されるって本当でしょうか?」
「へぇ、珍しく情報が早いね。誰から聞いた?」
岸永は普段の睦美からは想像できない質問に驚きを隠せない様子で聞いてきた。社内での睦美は、業務に関する話以外はあまりしないのだ。
「秦君です、先ほど聞きました」
「あのバカ! あれほど内示案件だから誰にも言うなって忠告したのに……」
(——ごめん、秦君。 でも聞かずにはいれないよ)
岸永は少し苛立ちを見せはしたが、いつもと変わらない口調で応対していた。
「その話は本当だよ。秦の言うように、この営業所にも配属されることになってる。あいつに伝えたのは失敗だったな。面倒見てもらわないといけないから事前に教えてみたんだけど……」
「秦君が言うには、配属されてくるのは新入社員のセールスと内勤が一人ずつらしいのですが……本当でしょうか?」
(――お願い! セールスだけだと言って、所長!)
「あぁ、それも聞いてるんだ……間違いないよ。だから七瀬さんにも、内勤の新入社員の面倒を見てもらわないといけなくなるね」
(……終わった。最悪だ……さようなら、私の平穏……)
「さっきも言ったけど、これ内示案件だから内密にね」
そう言うと岸永は営業所に戻ってきた秦を呼び、そのまま会議室へと消えていった。内示案件での説教が始まるのは想像に難くなかった。
日常というものは常にそこにあるものを指す。個人の日常が崩壊していようとも、他者の日常が生きている限り、変わらず対応を求められるものだ。仕事というのは、まさにその代表と言っても過言ではないだろう。睦美も今、その日常と非日常の狭間で仕事と向き合い、自分に求められることをこなすことに勤めていた。
(朝にアラフォーの洗礼とか言ったけど、もはやこれは呪いだよ……)
淡々と仕事をこなしながら、自分に起こっていることを頭の中で整理していた。
(……いや、頭の中は仕事のことだけでパンクしそうですけど?)
——まず、槇本からのメッセージの件。これについては、お礼を言っておきたいので、今晩連絡することに変わりはない。
——次に、あゆみの件。これについては、本人に連絡がとれない以上、恋愛関係であった槇本に聞いてみるしかない。
——最後に、新入社員の件。これについては、配属されてくるのは先の話なので、今は特別気にする必要もない。その時が来たら考えればいい。
スッキリした睦美は、いつもと変わらない職場での日常を送ることに勤めた。何に悩もうとも、仕事は待ってくれないのだ。
(あれ? 色々あったような気がするのに今晩の連絡の件ぐらいか……ってか、勝手にスッキリしたことにされてるし……)
「七瀬さん、内示案件に巻き込んですみませんでした!」
睦美が得意先との電話を終えるのを待って、秦が申し訳なさそうに謝ってきた。
「いえいえ、こちらこそすみませんでした。所長に聞かれて、咄嗟に秦君の名前を出してしまいました」
「気にしないでください、悪いのは自分なので」
(秦君、こういう素直なところは可愛いのに……)
「七瀬さんって、少し変わってますよね? 年下で後輩の自分にも敬語で話すじゃないですか……いや、他のみんなにもか」
「そうですね……、特別意識してるわけではないのですが。ちなみにですけど、敬語と言うよりは丁寧語に近いと思いますよ」
(……あれ? 丁寧語って敬語の種類だったような気が……)
少しの話の間が変な空気を作り出し、お互いに気まずくなってきていた……。
「それじゃ、仕事に戻ります。油を売っていて、また所長に説教されるの嫌なんで」
秦は苦笑いしながら足早にその場を去っていった。睦美はその背中を見つめながら自分が相手との距離を縮めすぎない為に、意図して丁寧語を使うようになったことを思い出していた。
話し相手に悪いイメージは持たれないし、微妙に距離を感じることから親しくなりすぎない。他人と深く関わりたくない睦美にとって、こんなに便利な話し方は他になかったのだ。
(……私ってなんか卑怯だよね。ごめん、秦君……)
その後、残業することもなく定時で仕事を終えることが出来た睦美は、帰り支度をしながら今晩のことを考えていた……。