静寂に包まれたその部屋の中で、時計の秒針が時を刻む音だけが響き渡る。誰に聞かれるわけでもなく、過ぎゆく今この瞬間を唯々伝え続けている……。
見渡す限り白色に統一されたその部屋の中は綺麗に整理されていて、ここが病室かと見紛うほどシンプルだ。それ故か、あまり生活感を感じられない。唯一、窓際に設置されたパソコンデスクにだけは無造作に書籍が積み上げられていて、部屋の住人がここを使用していることを教えてくれている。
——だが、本来そこにあったはずのパソコンの存在は見当たらない。
「ちょっと待って! いくらなんでも人の部屋を生活感の無い病室みたいとか、失礼でしょ! それに君の声があるから静寂でもないじゃない!」
『何度も言ってますけど、この声が聞こえるの睦美さんだけっすよ? 何も言わなかったら、読者さんの中では静かな部屋のイメージだったのに……。それから、語りの最中に口を挟むの止めてもらえないっすか?』
「えー、それが楽しいのに?」
『楽しくてもダメっすよ、話が進まないじゃないっすか……』
「あとさ、いつも気になってたけど……その読者さんって誰よ?」
『世の中には気にしなくていいこともあるんっすよ。とりあえず話続けたいので、静かに読書の続きでもしててくださいよ……』
「はいはい、わかりました。……でも、気になるような内容だったら、遠慮なく口挟むからね!」
いつもの変わらないやり取りを終えた睦美は、手に持っていた読みかけの本のページを開き、何事もなかったかのように静かに続きを読みだした……。
「語りへの切り替え速っ!」
『――睦美さん!』
「あはは、ごめんごめん」
この部屋の住人、【
過去の苦い経験から人間不信になったことがあり、他人と深くかかわることを避けるようになった。日常は保守的になり、新しいことから生まれる変化を恐れ、慣れ親しんだ現状の維持に尽力している。
(………………)
そんな睦美の心の拠り所は読書である。自室で本を読んでいるその間だけは、まわりに気を遣う必要もないまま、リスク無しで自分だけの非日常を体験できる唯一無二の趣味になっていた。
(今日はよく語るなぁ、読書に集中できないわ……)
しかし、睦美には一つだけ他の人と違う秘密がある。それが先のやり取りで見せた会話だ。本来なら聞こえるはずのない、睦美を主人公とした物語を語る声が聞こえてしまう。物語と言っても起こった過去を回想しているようなものだ……未来予知的な部分は一切ない。そこに加えて、その声と会話さえ出来てしまうのだ。 他人から見れば、怪しい独り言に聞こえることだろう。当然、睦美自身もそれは理解している。故に他の人が居る前では、聞こえていても聞こえないふりをして過ごすようにしている。
「今の私って、語られるとそんな感じの説明になるんだね……複雑だわー」
(絶対にさっきの仕返しも入ってるでしょ、これは……)
『睦美さん、いい加減慣れてくださいよ。この説明も言い回しこそ変えてますが、数えきれないくらいしてきてるっすよ?』
「ソウデスネ……」
唇を尖らせ不服そうな面持ちで読書に戻った睦美だったが、どことなく楽しそうでもある。本来なら有り得ないこんなやり取りの1つ1つが、今を支える糧の一部なんだと、心の中では納得していた。
<ピコン——>
読書に戻り静けさを取り戻した部屋の中に、突如としてスマホからメッセージの着信音が響き渡る。
「ん、なんだろ?」
ベッドの上に居た睦美は読んでいた本を置き、傍のテーブルからスマホを取ろうと手を伸ばした。
<ピコン、ピコン、ピコン——>
立て続けに鳴り出し止まない着信音。睦美は無意識のうちに伸ばした手を止め、次の瞬間には胸元まで戻していた。
「――! えっ? 何っ⁉ どうなってんの⁉」
辺りを見回しながら怯えた声を出し狼狽える。普段から変化を嫌う睦美にとって、この状況は困惑するには十分すぎるものだった。
「ねぇ、君! 聞こえてるんでしょ⁉ どうなってるのか教えてよ!」
『睦美さん、こっちに話振っちゃったら今の状況台無しじゃないっすか……』
「だって怖いんだから仕方ないでしょ!」
『……とりあえず、スマホのメッセージ確認してくださいよ。じゃないと話進められないっすから』
「だーかーらー、それが怖いって言ってるの! なんでわからないのよ……。君ならメッセージの内容とか分かるんでしょ⁉」
『いやいや、そんな未来予知的な能力ないっすよ? 残念ながら自分は起こったことしか語れないんで』
こうして会話をしている間も、メッセージの着信音は止まらず続いていた。
「もー、役立たず! わかったわよ、見ればいいんでしょ? 見れば!」
『はい、お願いします。あと、読者さん困っちゃうんで、今後こういう振り方は勘弁っすよ?』
「その謎の読者よりも、私のほうがよっぽど困ってるわよ!」
深呼吸をしながら天井を見上げ、一瞬の瞑想の後、意を決した睦美は恐る恐る手を伸ばしスマホを手に取って画面を確認した。未読のメッセージの1つをタップして開いた瞬間、そのひきつった顔から恐怖は消え、照れ笑いに変わっていた。
【アラフォーの世界にようこそ! 40歳の誕生日おめでとう♪】
時刻は0時を過ぎ、日付が変わり3月27日を迎えていた。そう、今日は睦美の40歳の誕生日である。鳴り止まなかった数多の着信音は、全てが彼女の誕生日を祝う為のメッセージだったのだ。
「いろんな意味でサプライズすぎるでしょ! 怖がって損したー」
(……ってか、39歳もアラフォーじゃないの?)
「ねぇ、39歳ってアラフォーだよね?」
『一般的な定義だと、40歳前後がアラフォーなので……そうなるっすね』
「だよねぇ。すでにその世界の住人だったよ……ドンマイ、私」
いつもよりも嬉しい日常を取り戻した睦美は、送られてきた祝いのメッセージのすべてに目を通しながら、丁寧にお礼の返信を書いていた。学生時代からの友達、会社の同僚、得意先の知人、深い付き合いを嫌う割に知り合いは多い。
逆に言えば、付き合いが浅いからこそ、良い部分しか見せないのだ。結果として、良いイメージを持たれたまま、知り合いとして認知されている。睦美なりの処世術と言うやつだろう。
「嬉しいんだけど、全部にレスしてたら朝になっちゃうよ……」
若干、困惑した面持ちで呟いたのも仕方のないことだった。返信したメッセージに、さらに返信のメッセージが来るのだ。終わらないやり取り、それも同時に複数人と……しかし、その手を止めるわけにはいかなかった。
——少しでも早く、全員にお礼の返信をしなくてはならない。
——返信が遅れたり、未読のままだったり、そんな状況はあってはならない。
人の目が気になる睦美にとって、他人の評価ほど怖いものはない。ちょっとしたことで見る目が変わり、手のひらを反したかのように態度が変わる。過去に幾度となく経験してきたそれが、何より怖く……そして耐えられないのだ。
そんな中、黙々と返信の作業を進めていた睦美の手が止まっていた。視線の先にあるスマホの画面に映し出されたメッセージを見たまま、時が止まったかのように動かない。
「今になってなんで……」
そう呟いた睦美の目に飛び込んで来ていたのは、【
決して止まることのない時の流れはそんな彼女だけを残し、無情にも時間だけが刻々と過ぎてゆく……。再び部屋の中は静寂包まれ、時計の秒針が時を刻む音だけの世界に戻っていた。