仕事を終えて家に帰ると、それは変わることなく常にそこにあって、毎日繰り返されるものと信じて疑わなかった……。太陽が日没とともに沈み、夜明けとともに昇るように、それが当たり前の日常としてそこにあるものだと思っていたから。
——それなのに今、目の前にある現実は当たり前の日常のそれとは違う……。
時が経つのは早いもので、インターネット上での活動を始めてから7年の月日が過ぎ、大学生だった私も今では普通に社会人をしている。当然のように今まで通りの日常を続けていくものだと思っていた。
特別な何かを求めるわけでもなく、物欲と言っても趣味である読書の為に書籍を買う程度だし、彼氏が欲しいわけでも……いや、そこは少し憧れるかな。それでも、インターネットという仮想空間の中には、確かに私の今を充実させてくれるすべてがあった。
いつもの決まったゲームサイトに集まった仲間達と一緒にゲームをしたり、雑談をしたりして過ごす時間……それは私の孤独を忘れさせてくれた。
たまに行うゲーム配信に集まってくれるリスナーの人達との交流は、私が少しだけ特別になれたような優越感をくれた……そこでは私の存在を認めてもらえた気がした。
そのすべてが、今の私を支えていると言ってもいいほど大切な日常だった……。そんなかけがえのない日常が数日前にすべて奪われた。これまでに築き上げてきたコミュニティも、そこにあったはずの私の居場所も何もかも……。
——理解出来なかった……いや、今も理解なんて出来るわけないじゃない!
カーテンを閉め、照明も消したままの真っ暗な部屋の中、パソコンの画面が放つ明かりだけが私を照らしている。そこにはゲームサイトのログイン画面が映し出されていた。
しかし、ゲームにログインするわけでもなく、私の手はキーボードの上で止まったまま微動だにしない。その状態のままで自問自答を繰り返している。
「どう考えてもおかしいよ……。誰が私に成り代わってるの……」
もう何日もこの状態の繰り返しだ。知りたいけど自分に向けられる誹謗中傷が怖くてログインさえ出来ない。結果として、その見慣れた静止画面を見つめたまま一人で考え込む……。
そんな私の精神状態はすでに限界だった。身に覚えのない罪を着せられ、そこに存在しないはずのもう一人の自分が現れ、その人に大切なものがすべて奪われた。もはや誰も信じることなど出来ない程に追い込まれていた。
「もう嫌だ……。誰でもいいから助けてよ……お願い、私に全部返して……」
泣きそうになりながら祈るように絞り出したその言葉は、今の私に出来る精一杯の抵抗だった……。次の瞬間には、無意識に口元が緩み怪しい笑みをこぼしていた……もはや感情のコントロールが出来ていないのが分かる。極限状態にまで追い込まれた精神が音を立てて崩壊する一歩手前といった感じだったのかもしれない。
諦めから自暴自棄になりかけていたその時だった。誰にも届くことは無いと思っていた助けを求めるその声は、思いもよらぬ形で届いていた……。
『
「——! 誰っ⁉ だ、誰かいるの?」
『突如聞こえた声に怯えながらも、睦美は辺りを見回しながら考えていた……今のは幻聴だったのかもしれないと』
「……えっ、見られてるの? 嫌だっ! 噓でしょ⁉」
『睦美は慌てて部屋の隅に移動して全体を見渡しながら声の主を探した……が、その存在を確認することは出来なかった』
「ねぇ! もうやめてよ! お願いだから……もう許して……」
『……えーっと、なんか驚かせてしまったみたいで申し訳ないっす』
私は泣きながらその場にへたり込んでいた。そんな時に聞こえてきたその声には何故か親しみがあり、異常事態なのだと分かっているのに自然と受け入れてしまった。
「誰……なんですか? 何処にいるんですか?」
『難しい質問っすね……。誰かと言われたら、自分でも分からないっすね。何処にいるかと聞かれても、声以外の存在は無いと思うっすよ?』
「……何を言ってるのかよく分からないですけど、幽霊とかですか?」
自分でも不思議なくらいに冷静になっていたと思う。精神状態の限界からおかしくなったのかと、色々な可能性を思案していた。ただ、1つだけ分かったことがある……。
——この声の人は、ちゃんと私の声を聴いてくれる!
何を言ってもまともに取り合ってもらえない、弁明しても聞いてもらえない。そんな事があった後だから嬉しかった……本当に嬉しかった。
『幽霊ちゃうわ! ……いや、幽霊みたいなもんか。実体無いもんなぁ』
「あはは、変な人ですね」
『それを言ったら、姿のない自分とこうやって話してる睦美さんも十分変っすよ?』
「そうかもしれないですね……」
そんな事はどうでも良かった……。変に思われようとも、どんな目で見られようとも、今この瞬間に取り戻したかったものが1つだけ返ってきたのだから……そう、話し相手というかけがえのないものが。
そう思ったと同時に、自然と頬を伝う涙が止まらなくなっていた。
(ありがとう……本当にありがとう、私の声を聴いてくれて……)
『睦美さん、これからは自分があなたの名前を呼び続けます。自分を必要とする事が無くなるその日が来るまで、あなたの物語を語り続けます……ちゃんと届くその時まで』
こうして心に深い傷を負ってしまった私と、声だけしか存在しない不思議な君との奇妙な共同生活が幕を開けたのだった。