経済的な苦労を知らず、何ひとつとして不自由したことのない世間知らずの少女。
『お嬢様』を定義するとすれば、概ねそんなところだろうか。
では『お嬢様』という人種に対して、一般的にはどんなイメージがあるだろうか。
上品で淑やかで、美しい蝶や花のような存在だろうか。きっちり
そんなピンからキリまである中で、共通して言えること。
それはやはり、特別な生まれに起因する気品や落ち着き、あるいは優雅さといったものではないだろうか。たとえトラブルメイカー型の暴れん坊お嬢様であったとしても、その所作の端々からは厳しい教育の気配を感じさせるだとか。本人の思想はどうあれ、
しかし現在。
お嬢様方は、そんな大半の者が抱くであろうイメージとはかけ離れた姿を見せていた。
「ちょっ……何!? どういう状況ですの!?」
髪を振り乱し、制服のスカートをばっさばっさとはためかせ。
そんな一団の先頭を、国宝院シエラが走っていた。制服が少し汚れているのは、恐らく先の煙幕や砂埃のせいであろう。
周囲を見てみれば、他の実習参加者もシエラと同様であった。
いや、それよりも酷い有様だ。普段、それほど激しい運動をしているわけでもない彼女らだ。ほとんどの者が突然の出来事に息を切らしていた。煙幕を思い切り吸い込んでしまったせいか、ある者はゲホゲホと激しく咳き込んでいる。現在の彼女たちには、気品や優雅さ等といった要素が皆無であった。
一体これはどういう状況なのか。そんなシエラの疑問に答えられる者など居ない。
突然視界を覆った真っ白な煙。何事かを叫ぶ声。誰もがよく分からぬまま、何かに導かれ、尻を蹴飛ばされ、背中を押され、半ば無理矢理に手を引かれた。そうして気づけば、理由も分からないままに走っていた。引率であるはずの八神教諭でさえそうだった。
「詳細はわかりません。ですが、逃げるチャンスは今しかないと思いました。皆様方、先ほどはご無礼申し訳ありませんでした」
そう語るのは
彼女はあの時咄嗟に行動を起こせた、数少ない人間のうちの一人である。現在は傷で痛む足に鞭を打ち、実習参加者の手を引きながら走っている。見れば他のパーティメンバー達も、それぞれがお嬢様方の面倒を見ながら走っていた。どうやら
「一体何が起きたの!? あの煙は何!? 敵はどうなったんですの!?」
「分かりません。ですが一先ずは躱せたようです。このまま探協まで一気に逃げましょう。探索者ではない皆さんには辛いかもしれませんが……今は頑張って頂くしかありません」
あの時
『全員を連れて走れ』という
だが、そんなことは重要ではない。彼女らの使命は、お嬢様方を無事に地上へ帰すことだ。
故にリーダーは心の中で、気のせいかも知れない誰かに感謝を告げた。あわよくば、再び会えることを願って。
なお、煙幕の中で
背中を押したのが凪で、ケツを蹴り飛ばしたのが火恋である。
そのまま凪達へと説明し、他の生徒たちを逃がす為に動いたのだ。無論凪以外の者は困惑したが、妙に必死な様子のルーカスに押し切られる形となった。
「……こんな馬鹿馬鹿しい作戦、よく乗る気になったわね」
一団の最後尾を走りながら、凪とルーカスが小声で言葉を交わす。
「確かに荒唐無稽な話です。六桁の元探が
「ならどうして? まさか本当に、例の『借り』が理由というワケではないのでしょう?」
「……俺も腕には覚えがあります。一度手を合わせれば、彼女が俺より強いことくらい分かりますよ。それも遥かに、です。恥ずかしながら気が動転して、あの時は気づきませんでしたが」
「……貴方ほどの実力者から見ても、やっぱりそうなのね」
ほぼほぼ確信しつつも、しかし凪がこれまで自信を持てずにいた部分。戦闘素人の自分では情報が不足していた為に、紙袋と
「というと……もしや、ご存知だった訳ではないのですか?」
「九割方、といったところかしらね。あの子、実力を隠したいみたいなの。問い詰めても誤魔化すし、だからといって無理矢理聞き出すのもちょっと、ね」
「そうでしたか……先の模擬戦での振る舞いを見れば、恐らくそうなのだろうとは思っていましたが。では俺も、口外しないように致しましょう」
「そうしてくれると助かるわ」
そんなルーカスの言葉に、凪は一先ず安堵の息を零す。
無闇に探りを入れれば、あのメイドはふらりと姿を消してしまいそうな気がしていたから。
「……あの子は大丈夫かしら」
「正直に申し上げれば、俺には分かりません。敵は両者とも、間違いなく規格外でした。下手をすると二桁上位か、或いは一桁に近いかも知れません」
「なッ……!?」
繰り返しになるが、凪は戦闘に関しては素人だ。敵の実力など分からない。ただ
だが流石に、相手が一桁近い実力者だとは予想していなかった。
一桁といえば探索者の頂点だ。その実力はほとんど化物、人外だとすら言われている。いくら
「ですが」
しかしそんな凪の動揺は、続くルーカスの言葉によって相殺される。
「
そう語るルーカスの表情は、自信ありとは言い難い微妙なものであった。