「……何者だ?」
車を降りた運転手の男が、剣呑な気配を漂わせつつ紙袋へと
対する紙袋から聞こえてきたのは、少しくぐもった女の声だった。
「私は――――ただの一般通過メイドです!」
まるで状況は飲み込めないが――しかし凪は、小さな吐息と共に眉を顰めた。
(あれは……リーナが話していた謎の紙袋女? というかアレ、多分
地毛なのか、それとも染めているのか。興味がなかったが故に聞いたことのなかった、周囲の目を引く長い銀髪。一見しただけでは分からないが、しかし細部に職人のこだわりが光る、既製品とは明らかに違うメイド服。あまりまじまじと見たことはないが、背格好も大体同じくらいのような気がする。声に関しては、籠もっているため判然としない。
極めつけはあのバカみたいな紙袋だ。変装のつもりなのだろうか。突拍子もないその装いは、ほとんどふざけているようにしか見えない。しかしいかにも、あのメイドのやりそうな事のように思える。なにしろ初対面である凪に対し、『デカ乳』などと言い放った女なのだ。詳細な性格を把握しているわけではないが、掴みどころがないメイドだということだけは凪も知っていた。
あれほどまでに怪しいメイド、忘れようとしても忘れられないだろう。すぐに気づいてもよさそうなのに、しかしリーナは
しかし、今はそんなことよりも。
(あの子、一体どうやって――いえ、それよりも……)
相手はたったの二人だ。
見たところ、黒沼は戦闘要員ではなさそうに思える。彼女はおそらく指示役で、荒事は運転手をしていたあの男が務めるのだろう。つまりは少数精鋭での犯行だ。他国の要人、その娘を誘拐しようというのだ。その実行犯ともなれば、生半な実力では務まらないだろう。その上で、片方が非戦闘員だとするのなら。残ったもう片方――あの男の実力は、恐らく相当に高い。確実に元探索者か、現役探索者のどちらかであろう。
探索者という者達は、なにもダンジョン探索だけを行って生活しているわけではない。もちろん探索一本でやっている者もいるが、どちらかといえば少数派だ。
探索者は日頃の探索業によって身体能力が鍛えられており、中には特殊な能力を持つ者も存在する。その実力を買われ、別の仕事を並行して請け負っている者は多い。その仕事内容は公的なものあれば、私的なものもある。合法の仕事もあれば、非合法な仕事に手を染める者もいる。何れにせよ、こと荒事に関して言えば、探索者はまさにうってつけの存在なのだ。
凪が思考を加速させる。
もしもこれが黒沼の言う通り『総会』絡みの犯行だというのなら、どこかの国、或いは直属の組織が関わっている可能性が高い。そんなところから派遣されてきた戦闘要員ならば、どれだけ低く見積もっても三桁、下手をすると二桁台の実力者かもしれない。そんな凪の予想が正しければ、恐らくは泣かず飛ばずで探索者を引退したのであろう、元探索者の
無論、全ては推測の域を出ない。確定していない情報ばかりをいくつも繋ぎ合わせた、ほとんど妄想と呼んでも差し支えのない推測だ。
だが運転手の男が放つ濃密な気配を見るに、凪の考えはそう的外れでもなさそうだった。
「貴女、どうして追いかけてきたのよ!? 見捨てなさいと言ったばかりでしょう!?」
珍しく、本当に珍しく、凪が大声で叫ぶ。
しかし前方の紙袋は、あくまでもしらを切るつもりでいるらしい。
「はて……何の話でしょうか? 私はただの一般通過メイドです。貴女とは初対面の筈ですが? おん?」
「貴女ねぇ……! 今はそんな冗談を言っている場合じゃ――」
凪が紙袋を問い詰めようと、場違いな問答を始めたところで、しかし待ったがかかる。
「よぉ、そこまでにしてくれや。俺達には時間が
「分かりますが、知りません。犯罪者の都合など」
「そりゃそうだ。まぁそんな訳で、道を空けてくれや。邪魔するって言うなら痛い目見るぜ……いや、今更か?」
男が僅かに考え込み、すぐに背後の黒沼へと問いかける。
「なぁ、そこのお姫様以外は殺していいんだろ?」
「ええ。我々の目的は九奈白凪の身柄だけ。他はどうだっていいわ」
「よし、んじゃ殺そう。それが一番手っ取り早い」
男は黒沼と短いやり取りを交わし、酷くあっさりとした態度でそう告げた。まるで夕飯の献立を決めるかのような、そんな気軽さであった。
男がメイド姿の紙袋へと肉薄する。元いた場所のアスファルトへと、一歩分の罅割れだけを残して。その速度たるや、凪にはほとんど瞬間移動のように見えた程であった。先ほどまでの会話に意味など無い。どうやら実行犯の二人は、あの紙袋メイドが先ほど出会った
目にも留まらぬ速度で以て、軽く握った拳を一閃。軌跡はまっすぐ、最短距離を通って紙袋へと向かう。
凪が声を発する間すらない。彼女が気付いた時には、既に男の拳は振り抜かれていた。男の踏み込んだ右足が地面を叩き割る。何を語らずともそれだけで、男の桁外れの力が窺い知れるというものだ。まともに喰らえば命はない。探索者ではない凪ですら、一目でそう分かるほどの一撃だった。
「っ……!」
凪が瞳をぎゅっと閉じる。
短い付き合いとはいえ、知らぬ仲ではない。必要最低限のやりとりしか交わしていなかったとはいえ、自分のメイドだ。まして、
凪が瞳を閉じてから、一体どれくらいの時間が経過しただろうか。
一秒か、はたまた十秒か。随分と長く感じられる時間の中で、しかし凪は何かがおかしいことに気づく。そうして恐る恐る、確かめるように瞳を開く。そこには先程と何も変わらぬ、ふざけた格好の紙袋メイドが立っていた。それも五体満足でだ。
信じられないものを見た。今の凪の感情を言葉にするなら、そんなところだろうか。
「はて……蚊でも居ましたかね?」
「躱した、だと……? お前……マジで何者だ? 避けられるわけねぇだろうが。俺の攻撃が、そこらのヤツなんぞに」
「ですから一般通過メイドだと、先ほどお伝えしました」
「チッ……ふざけやがって――オラァッ!」
紙袋の舐め腐った態度が癇に障ったのだろう。半ば奇襲のような形で、男が右足を蹴り上げる。先程の攻撃同様、やはり目にも留まらぬ速度の蹴りだった。
しかし空気を切り裂くようなその蹴りは、文字通りに空を切る。紙袋メイドには掠りもしない。ただほんの少し、スカートの裾をふわりと揺らしただけだった。
「おや、スケベ」
紙袋が少し恥ずかしそうに告げる。もはや紙袋メイドの言動全てが、男にとっては酷く腹立たしかった。
だがしかし、真正面からの一撃は勿論のこと、奇襲気味に放った至近からの攻撃も通じない。強者特有の気配は感じないが、さりとて楽に倒せる相手でもない。場違いなメイド服とふざけた紙袋が、ここに来てただただ不気味であった。それ以外に形容のしようがなかった。
体勢を整えるためか、或いは何か嫌なものを感じたのか。男が一歩飛び退り、紙袋メイドから距離を取った。事此処に至り、男はひとつの確信を得ていた。見た目こそふざけているものの、目の前の相手は自分と同格か、それ以上であると。
「ちょっと、何を遊んでいるの!? 私達には時間がないのよ!? さっさと殺しなさい!」
「うるせぇ、ちょっと黙ってろ。アンタには分からんだろうが……コイツ、相当
「なっ……あり得ないわ!! 九奈白凪の周囲には、そんな高位の探索者はいない筈よ! 彼女の周囲は徹底的に調べてある! というより、この国全体でだって殆ど――」
「んな事知るかよ。現に今、目の前に居るだろうが」
「っ……!」
黒沼とそんな会話を交わしている間にも、男は紙袋メイドから視線を外さない。油断なく、一挙手一投足をも見逃さないように。対する紙袋メイドはといえば、特に気負った様子もなく、ただただ棒立ちを続けていた。まるでなんてことのない、ただ日常業務の一環だとでも言わんばかりに。あまつさえ、ちらりと腕時計を眺めてみたり。そんな呑気な姿が一々腹立たしい。
「……どこまでもふざけやがって。いいぜ、面白くなってきやがった。ならここからは本気で――」
男がそう口にした、その時だった。
言葉を全て言い終える前に、すぐ傍から声が聞こえてきた。
「あ、そういうのいらないです」
そんなまさか、ありえない。ほんの一瞬たりとも、目を離したりはしていないのに。そう叫びたくなる気持ちを、しかし男は気合でねじ伏せる。戦闘というものは、一瞬の判断で全てが決まる。相手が人であれ、魔物であれ、それは変わらない。一瞬の躊躇から敗北は生まれ、一瞬の迷いが死に繋がる。これまで積み重ねてきた数多の戦闘経験が、男の意識を強引に連れ戻す。そうして男がすぐ隣へと視線を送れば、そこにはやはり、紙袋メイドの姿があった。
「私、ゴミで遊ぶ趣味はないんです」
「テメ――――」
瞬間、男は視界の端に、何か黒い影を捉えていた。
考えるよりも先に身体が動く。それは身を守るための防衛本能。完全に無意識での行動だった。このままでは
トラックの衝突? 魔物の突進?
否――断じて否だ。そんなものでは決してあり得ない。ならばこれは一体なんだ。こんな威力の攻撃は食らったことがない。ダンジョンでも、地上でも。歪む視界の中、様々な可能性がぐるぐると泳ぎ回っていた。それと同時に、男が見ていた世界もまた、ぐるりと回る。
男は今しがた受けた衝撃の正体もわからぬままに、はるか彼方へと吹き飛ばされていた。