腕を組み、足を組み。
凡そ危機的状況にあるとは思えないような態度で、凪が静かに問う。
「それで、一体これはどういう事なのかしら?」
窓の外を眺める。
現在位置は定かではないが、どうやら市外に向かっているらしい。目立たないようにするためか、速度はそれほど出ていない様に感じられた。
「……冷静ですね。もしかして、まだ自分の状況がお分かりになられませんか」
「まさか。無理やり車に押し込まれたのよ? これが誘拐でなくて、一体何だというのかしら」
「現状を正しく認識してなお、その態度でいられるとは。流石は九奈白の跡取りといったところですかね」
凪の隣に座るのは、彼女の部下である黒沼だ。ぴしりと着こなしていたスーツはいくらか崩され、胸元が露になっていた。出来る女性といった印象は一変し、どこぞの悪女も斯くやといった様子である。恐らくは、今の姿が本来の黒沼なのだろう。僅かに浮かべた冷笑が、凪には酷く不愉快だった。
目的は分からない。だが、つまりはそういうことなのだろう。
「……はぁ。
「おや。こういった経験は初めてではない、と?」
「飼い犬に手を噛まれるのは、これで二度目よ」
「それはそれは」
そう。
凪は過去にも、今と同じ様に部下から裏切られた事がある。それこそ、彼女が他人を信じなくなった原因でもあるのだが────そういった経験があったからこそ、今こうして、凪は取り乱す事なくいられるのだ。当時の経験に感謝をするつもりなど毛頭無いが、しかし全くの無駄というわけでもなかったらしい。これが一般的な十五歳の少女であったなら、今頃は盛大に取り乱し、或いは泣き喚いたりもしていたことだろう。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが。
だが、そんなことはどうだっていいことだ。
今の凪に必要なのは、相手の目的を知ることだ。逆を言えば、それくらいしか出来ることがないのだが。
「もう一度聞くけれど、一体何が目的なのかしら?」
「……まぁ良いでしょう。僅か数年とはいえ、あなたにはお世話になりましたからね」
何が『世話になった』だ。そんなこと、露ほども思っていないくせに。そう言いたくなる気持ちを、凪はぐっと堪えた。事此処に至り、凪には情報を引き出す程度のことしか出来ない。それによって何が変わるというわけでもないだろうが、それしかやることが無いのだから仕方がない。黒沼が素直に答えるなどとは思っていなかった凪であったが、しかしどうやら、意外にも黒沼は目的を教えてくれるらしい。誘拐に成功し油断しているのか、はたまた、教えたところで支障がないからなのか。恐らくは後者だろうが。
「これから半年間、とある場所で貴女を監禁させて頂きます。心配せずとも、危害を加えるつもりはありませんよ。大人しく従って頂けるならの話ですが」
「あら優しい。お礼でも言うべきなのかしらね?」
皮肉交じりにそう言い捨て、凪が鼻で笑う。
今の一言で、凪には黒沼の目的が大凡掴めていた。
「半年、ね……つまりは『探協総会』絡みというわけかしら?」
「流石、理解がお早い」
特にはぐらかすようなこともなく、凪の問いかけに黒沼が頷く。
世界各地のダンジョンから産出される資源の分配、及びその優先権を決めるための場。それが『探協総会』だ。その重要性はいわずもがな、国家間のパワーバランスを決める場とさえ言われている。三年に一度開かれるそれが、半年後にも開催される。今年の開催場所は、奇しくもこの日本である。
そんな国家規模での催しに、九奈白凪が一体どう関係しているのか。『探協総会』まで思考が及んでいるのなら、あとは簡単な話だった。
ここ九奈白市は日本でも――否、世界での有数の迷宮都市である。日本の抱えるダンジョン資源の殆どが、この街から産出されているといっても過言ではない。その量と質は、この国を『探協総会』の最上位国へと導く程だ。そしてこの街の支配者は他でもない、九奈白家である。当然ながらその影響力は凄まじく、政府ですら軽々には扱えない存在となっている。ダンジョン産業が盛んなこの時代に於いては、ダンジョンを支配する者こそが力を持つ、というわけだ。
『探協総会』に於いて日本がどれだけ各国に対して強気に出られるか。ダンジョン資源を売るも売らぬも、それは九奈白家の匙加減ひとつということだ。
無論、これはただの極論に過ぎない。九奈白家とて、無闇矢鱈と政府を敵に回すつもりなどない。だが逆を言えば――理由さえあれば、政府に楯突くことも出来る存在だということだ。
そしてその理由となり得るもののひとつが、この九奈白凪という少女だった。
凪を人質とすることで九奈白家、ひいては日本を強請る。それが、今回の誘拐の目的であるらしい。どこの国の仕業かは分からぬが、最初からこれを目的として黒沼達を送り込んできたのだとしたら、随分と周到に計画された犯行だった。彼女が凪の下で働くようになってから、既に数年が経っているのだから。
「この数年、私は常に貴女を連れ出す隙を窺っていました。ですが――あなたの周りには
黒沼がわざとらしく肩を竦める。いちいち癇に障る動きであった。
「総会までは残り半年、正直に言えば焦っていました。いつも連れている狩間さんは、頑なに貴女から離れようとしません。力付くで引き離そうものなら、すぐにでも九奈白本家に通報されるでしょうし。しかし今日は違った。あなたが別のメイドを連れているのを見た時、千載一遇のチャンスだと思いましたよ」
「聞いてもいないことまでべらべらと、随分機嫌が良いみたいね」
「それはもう。漸く計画が成就したのですから。しかしまぁ……紙一重でしたが」
先程から、黒沼の言葉はどこか引っかかりを覚える。しかしその違和感の正体が、凪には分からなかった。
「これは年上からのアドバイスです。あなたはもう少し、他人を信用するべきです」
「まさか裏切り者からそんな言葉が出るとはね。冗談にしてもつまらないわ」
「ふふっ、確かに。ですが――あなたが周囲に壁を作っていなければ、今回の『コレ』は失敗していましたよ。恐らくですがね」
そう言ったきり、黒沼は饒舌だった口を噤んだ。どうやらおしゃべりはこれで終わり、ということらしい。
そして凪もまた、それ以上何も聞くことはなかった。知りたい事は粗方聞けたし、現状では他に出来ることもなかったから。
表向き冷静な態度を取り続けている凪ではあるが、内心では焦りを覚えていた。これが凪個人への攻撃であったならば、彼女もこんな気持ちにはなっていないだろう。だが今回は違う。自分がこのまま連れ去られるということは、九奈白家に大きな弱みを作ることになる。しかし外部へ連絡を取る手段がない。状況は非常に悪かった。
まさか九奈白のお膝元であるこの市内で、という油断があったのかもしれない。或いは驕りだろうか。
護衛をつけろという父の言葉を無視したツケが、最悪の形で巡ってきていた。しかしいくら大人びて見えるとはいっても、凪はまだ十五の少女に過ぎないのだ。そんな彼女に身内の裏切りを予測しろというのは、些か酷な話ではある。そうして凪は、先程の黒沼の言葉を反芻する。もっと他人を信用しろだのなんだのと、結局何が言いたいのかは最後まで判然としなかった。だがなんとも言いようのない、妙なしこりを凪の心に残していた。
そうして何も出来ぬまま、時間だけが過ぎてゆく。
市外まであとどれだけの猶予があるだろうか。窓の外を見たところで、現在位置は分からない。
そんな折、今までずっと黙していた運転手の男が口を開いた。
「……ちっ、通行止めだ。ルートを変えるぞ」
「ええ。とにかく急いで頂戴」
苛立つように舌打ちをする男。対する黒沼も、どこか落ち着かないような声色だった。こうした誘拐は時間との勝負だ。発覚するまでにどこまで移動できているか。それが作戦の成否を分ける。一般道を使用している以上、想定外の出来事は仕方がない。だがそれはそれとして、焦る気持ちはどうしても出てしまうものだ。白昼堂々犯行に及んだ黒沼達も、それは変わらないらしい。
そうして車を走らせること暫く。再び男が口を開く。
「おい、また通行止めだぞ……どうする?」
二度目の通行止めであった。
確かに、通行止め自体はそう珍しいものではない。だがよりにもよってこんな時に、それも二度。
「はぁ? ちょっと、またなの?」
「ここでルートを変えるのは相当なロスになるぞ」
「くッ……そうは言っても、仕方ないでしょう? まさか突っ切るわけにもいかないし」
そう、彼女らは強行突破が出来ない。
何しろこの車は現在、絶賛犯罪行為中なのだ。検問のひとつでもあればそれで終わり、絶対に目立つわけにはいかなかった。もちろん事前のルート選びくらいはしているだろうが、しかし事故や渋滞による通行止めなど、事前に予測出来るはずもない。間が悪いというべきか、なんというべきか。結局黒沼達は迂回を選んだ。
(運が良いわね……とはいえ、少し時間を稼げたところで――――)
度重なる通行止めにより、黒沼達は本来のルートから随分と回り道をさせられている様子であった。外を見れば確かに、市外へ向かっているという割には方角が違っている。現在は
凪にとっては思わぬ幸運ではあったが、しかし依然として外部と連絡を取る手段がなかった。凪のスマホも、車に乗せられるなり早々に奪われてしまっている。だがこのままじっと待っていたところで、助けがくるはずもない。二度続いた幸運も、流石にこれ以上はないだろう。
最悪、力付くでスマホの奪取を試みるべきか。そう考えもしたが、よしんば奪えたところで、悠長に連絡を取っている時間などない。成算が僅かにでもあるのなら、凪は行動出来る人間だ。だが失敗することが分かりきっている以上、やはり動けない。
そうしていよいよ、凪が追い詰められた時だった。
突如として車の前方、道路の中央部分が爆発した。
最初に聞こえたのは大きな破砕音。次いで感じたのは凄まじい揺れ。どうやら運転手が急ブレーキをかけたらしい。残された慣性が車内へと襲いかかり、伸び切ったシートベルトへと凪を押し付ける。凪が激しい揺れの中、それでもどうにか状況を把握しようと前方へ視線を向ける。吹き飛ばされたアスファルトの欠片が、妙にゆっくりと見えていた。
衝撃に眩む視界の中、もうもうと立ち上る煙が周囲へと広がってゆく。その中にうっすらと、人影のようなものが見えていた。
惨事と言っても過言ではない光景の中、
黒煙の隙間に輝く、銀の髪。
熱を帯びた風で揺らめく、黒白のスカート。
等間隔にふたつ、穴の空いた紙袋。
紛れもなく異形。けれど何故だか見覚えがあるような。
瞳を見開いた凪の前には、紙袋を被った変質者の姿があった。