凪の部屋を後にした織羽が、次に案内されたのは厨房だった。
厨房は白凪館の一階、エントランスホールの右手側に位置している。食堂とは完全に独立しており、どこぞのレストランも斯くやといった配置となっていた。そんなレストランで織羽を待ち受けていたのは、ここ白凪館の厨房担当であった。
「いやぁー、久しぶりに新人が入るとは聞いてたけど……まさかこんな美人さんとはねぇ!」
茶系のショートボブに、人懐っこい笑顔の女性。美人というよりは、どちらかというと可憐なタイプだ。背は随分と低めで、恐らくは150cmあるかどうか、といったところ。一方で、被っているコック帽はやたらと長い。この国ではコック帽の長さで地位を表したりしているが、その関係なのだろうか。この館のコックは彼女一人であり、地位もへったくれもないのだが。
声も溌剌としており、言葉遣いからも親しみやすい印象を受ける。『美人』と言われて喜ぶべきか悲しむべきか、織羽からすればなんとも複雑な気持ちではあった。
「織羽さん、こちらが厨房担当の鳥海です」
「おっすおっす! 只今ご紹介に預かりました、鳥海亜音です! ちなみに父がフランス人で、母はトルコ人です! まさに料理をするために生まれてきたような、料理界のサラブレッドです! これからよろしくお願いしまっす!」
花緒里の紹介を受け、亜音と名乗る少女は矢継ぎ早に語り始める。
「今日からこちらでお世話になります、織羽と申します――――凄いですね。あとは中国要素があれば、一人で世界三大料理を網羅出来ちゃいますよ」
「でしょでしょ!? ちなみに今の全部嘘で、ホントはふっつーの日本人でっす! オナシャス!」
嘘だった。
織羽の感動はどこへやら、どうやら死ぬほど面倒くさい女性らしい。織羽がこれまで出会ってきた人物で言えば、タイプ的に星輝姫が近いだろうか。親しみやすいが、しかし真面目に対応すると酷く疲れる。憎めないがどこか鬱陶しい。そういうタイプの女性であった。歳は織羽よりも少し上、恐らくは20代前半……といったところだろうか。その可愛らしい童顔と低めの身長が手伝って、一見しただけではどうにもハッキリとしない。
「それで!? オリオリは料理出来るの!?」
「一通り習得しています。私に手伝えることがあれば、なんなりとお申し付け下さ――――オリオリ?」
織羽に与えられる仕事は、凪の学園生活のサポート――表向きの話ではあるが――である。
つまりは外での仕事が主であり、凪がこの館にいる間は特に仕事がないのだ。しかしメイドとして雇われている以上、家の中でゴロゴロとしているのは当然ながら宜しくない。そう考えた織羽が自ら名乗り出て、ならばと花緒里が与えた仕事。それが各担当部署でのサポート役であった。手の足りないところや手助けを必要としている部署の穴埋め、要するに遊撃要員である。とはいえ、今でも館内の仕事は十分に回っている。恐らくではあるが、基本的には館内の掃除をすることになるだろう。
「じゃあさ! 今から軽く、何か作ってみてよ! 花緒里さん、いいよね?」
「そうですね。私も織羽さんの能力は把握しておきたいですし、是非お願いします」
「やったぜ! あ、食材はあっちね。何でも好きなの使っていいから!」
織羽が何かを言う暇もなく、気がつけば料理の腕を披露することになっていた。とはいえこれは、織羽にとってもよい機会だ。自らの能力を誇示するつもりはないが、ある程度『やれる』というところは見せておかねばならない。叩き出される心配は既になさそうだが、これからのメイド生活を円滑に進めるためには必要なことだった。
「わかりました。そうですね……何を作りましょうか」
そうなると、やはり問題は『何を作るか』である。
織羽は料理担当ではないし、そもそもこれは本格的な試験というわけでもない。馬鹿正直に凝った料理を作れば、逆に要領の悪いメイドだと思われかねないだろう。そうして少しの逡巡の後、織羽が選んだのはパスタであった。必要な食材を見繕い、テキパキと行動を始める織羽。その様子を見ていた花緒里と亜音が、感心したような声を上げた。
「成程、パスタですか」
「あーね? 時間もかからないし、いいチョイスだね!」
パスタは一般的に、比較的簡単に作れる料理と思われがちだ。しかしその実、料理人の腕が問われる料理としても知られている。
例えばペペロンチーノ。無論アレンジ次第ではあるが、主に使用されるのは唐辛子とにんにく、あとはオリーブオイルくらいのものである。パスタの茹で時間や塩加減など、シンプルな料理であるが故に、より腕が問われる料理だといえるだろう。
とはいえ、まさかこんな昼間からにんにく料理を作るわけにもいかない。そんなわけで、今回織羽が選んだのはカルボナーラであった。
基本的な話ではあるが、卵料理全般がそもそも難しい。その上で更に、時間を最重要視されるパスタ料理だ。美味しく作るには長年の経験と腕が問われる、まさに今回の簡易試験にぴったりの料理だといえるだろう。
流石というべきか、用意されていた食材はどれもが最高級のものであった。多少でも料理に覚えのあるものが使えば、それこそ食材の味だけでゴリ押せてしまうほどに。だが今回織羽の料理を審査をするのは、そこらの一般人ではない。謂わばその道のプロ達であり、生半なものを作れば即座に失格を言い渡されることだろう。
無言で調理を続ける織羽と、それを見守る花緒里と亜音。亜音もやはり料理人ということなのだろう。先程までウザめだった言動は鳴りを潜め、酷く真剣な眼差しで織羽の一挙手一投足を見つめている。厨房内に会話はなく、ただただ調理器具の奏でる音だけが響いていた。
そうして凡そ20分ほど。織羽が二人の前に、今しがた完成したカルボナーラを二皿に分けて差し出した。
「出来ました」
「うーん、合格!!」
まだ食してもいないというのに、織羽は亜音から合格を言い渡されていた。
「……まだ食べてませんよね?」
「食べなくても分かるよ、間違いなく美味しい。いや、もちろんちゃんと食べるけどね。調理過程を見ただけでも、十分合格ラインに届いてるってこと」
ふざけた様子など微塵も見せず、織羽の作ったパスタをじっと見つめる。次いで織羽に向かい、真剣な眼差しでそう告げる亜音。そうしてゆっくりと、パスタを口へと運ぶ。隣の花緒里はといえば、どこか驚いたような表情でそれを見つめていた。
「……珍しいですね。亜音はこう見えて、料理に関してだけは異常に厳しいのですが……では、私も頂きます」
花緒里もまたパスタを口に運ぶ。直後に目を見開き、やはり驚きの表情を見せる。
「ん――――! んまい! 凄いねオリオリ、もしかして有名な料理人の弟子だったりするのかな?」
「いえ、特にそういう訳では……ただ、メイド業務全般の先生はいましたね」
織羽が思い出すのは、もちろん例の『先生』だ。凡そ半年間に渡って行われた、超スパルタのメイド修行。先生が一体何者だったのかは今でも謎だが、少なくともアレのおかげで、現在の完璧メイド織羽は完成したのだ。無論、先生の教えを余さず習得した織羽も大概ではあるが。そういった裏事情を知らない亜音は、ただただ織羽の腕前に感心するばかりであった。
「そっか。只者じゃないねオリオリ。コレ、ちょっと教わっただけで出せる味じゃないよ。下手すると私より上かも」
「同意見です。これなら問題ないでしょう」
「うんうん、これなら毎日でも手伝って欲しいね!」
少々褒められ過ぎな気もしたが、さりとて嫌な気分になるものではない。織羽は有り難く、二人からの言葉を頂戴しておくことにした。
「ありがとうございます」
こうして織羽は、少なくともひとつ、掃除以外の仕事を獲得したのであった。