腰まである艷やかな黒髪が、小さく揺れる。
不敵な笑みを浮かべつつ、ゆっくりと紅茶を口に含むその姿は、どこか気高さを感じさせる。
机の上に頬杖をつき、まるで品定めするかのように
「随分と――」
凪が口を開く。
「随分と可愛らしい子が来たものね。私はてっきり『如何にも監視役です』、みたいなメイドが来ると思っていたのだけれど」
皮肉のつもりか、或いは単純に褒めているのか。資料の上でしか凪を知らない
今回の任務の面倒な点。それは凪の入学に際し新しいメイドを雇用することを、凪自身が反対していたということだろう。
そもそもの話、九奈白凪という少女は周囲に人を置きたがらない。
九奈白凪は自らの特殊な生まれを自覚しつつも、その立場に甘えることを嫌う。金持ちの子女にありがちな『我儘』や『傲慢さ』は断じて無いが、しかし我が強い。例えるなら、まさに『孤高の令嬢』といったところだろうか。個人の能力は非常に高く、既にその立場に見合うだけのものは持っている少女なのだが。
そんな彼女を溺愛している九奈白家当主が、凪と揉めに揉めた末。
妥協案として殆ど強制的に付けたお目付け役。それが今回
といっても、
これは非常に面倒な仕事であった。なにしろ護衛とは、『する側』と『される側』の信頼関係が重要となるのだから。
例えば
「まぁいいわ。これからよろしくね、
「宜しくお願い致します」
言葉面だけを取ってみれば、友好的に見えなくもない。多少挑発的ではあるが、笑みを浮かべてもいる。だがその実、凪の瞳はちっとも笑ってはいなかった。
(……資料通り、かな? まぁ初対面だし、こんなものといえばそうなのかもしれないけど)
そう、
今はそれより、女装がバレないかの方が心配だった。父親に無理矢理付けられたメイドが実は男で、女装しながら女子校に通っていましたなどと。信頼関係も何もあったものではない。邪な考えなどあるはずもないが、しかしそんな事がバレれば一発で終わりだ。第一印象ではバレていない様子だが、果たしてこの先隠し通せるだろうか。タフガイを自称する
「貴女の仕事については、もう聞いているのでしょう? 何か聞いておきたい事はあるかしら?」
この言葉ひとつとっても、どこか事務的なものを感じさせるが――――
「では、凪様のことはなんと呼べばよろしいでしょうか?」
それは呼び方の話であった。
一見どうでもよいことのように思えるが、しかしこれが意外と大事だったりする。基本的には敬称に『様』を付けておけば問題ないが、どこにでも偏屈な者は居るものだ。かつて
しかし、そんな
「そうね……折角だし、貴女のセンスを見ておこうかしら――――貴女はどう呼びたいのかしら?」
(うそん……そのビジュアルでそっちタイプなの?)
初対面とはいえ、凪のことは資料である程度知っている。彼女は基本的には真面目タイプであり、実際にこうして顔を合わせた今も、それほど冗談を言うタイプには見えない。故に『お嬢様』か『凪様』のどちらかで落ち着くだろうと、
(面倒だな……もしかして試されてる?)
そっと視線を凪の方へ送ってみれば、彼女はなにやら挑発的な笑みを浮かべていた。
センスを見るというのなら、ユーモアのある解答を期待しているのだろうか。ある程度の無礼は許されるのだろうか。或いは、これは罠なのかもしれない。センスを見せろと伝えることで、本当にふざけた答えを出すかどうかを試しているのかもしれない。酒の席での『無礼講』を真に受け、上司にタメ口を使うだとか。そういった類のアレだろうか。
(……デカ乳とか言ったら怒られるよね。黒髪が綺麗だし、いっそ『姫』とでも呼んでみるか……? いやいや、そういうの嫌いなんだっけ?)
言えるはずもない妄想に、古来からあるつまらない案。いくつもの考えが浮かんでは消え、
(っていうかそのデカ乳で学園生活は無理でしょ……っと、駄目だ駄目だ。先生にも『時折ふざけるのがあなたの欠点です』って言われたじゃないか。真面目に考えろ……やっぱり普通に『凪様』がいいのかな? それとも『お嬢様』か? いや結局一周回ってるだけだし、それにつまんな――――あ、時間がヤバい)
「ではデカ乳で」
「……なんですって?」
「ではお嬢様で、と申しました」
平静を装って誤魔化はしたものの、切り抜けられるかは微妙なところである。
そもそもあり得ない解答であることに加え、多少早口で告げたこともあって、凪が聞き取れていない可能性もある。
「……」
「……まぁいいわ。面白みはないけれど、ね」
(や、やったぁ! セーフだぁ!)
色々とありはしたものの、どうにか誤魔化しきれたらしい。
こうして窮地を脱した
* * *
ひとまず
内容はもちろん、今しがた挨拶に訪れた新米メイドの件についてである。
「お嬢様、如何がでしたか?」
「ふふ……面白い子ね。それにとても美人だし、お父様の差し金というのが少し惜しいくらいだわ」
「おや……珍しいですね。お嬢様が初対面の相手に、そんな評価を下すのは」
凪の言葉を受け、
現在この館で働いている他のメイド達ですら、それこそ初対面では散々な評価をされていた。珍しいどころの話ではない。彼女の記憶が確かなら、凪が他人をこんな風に他人を評するのは初めてのことである。まして、笑みを浮かべるなど。付き合いの長い
「
「……申し訳ありません。厳しく言いつけておきますので」
「別に怒ってなんていないわ。むしろ嬉しいくらいだもの」
「お嬢様が特別扱いを嫌うことは存じておりますが……それはちょっと変態っぽいですね」
「ふふふ、貴女も大概失礼なことを言っているわよ? 別に構わないのだけれど」
どこか上機嫌に笑い、窓の外へと視線を向ける凪。それは深窓の令嬢と呼ぶに相応しい、酷く絵になる姿であった。
「では、あの者は信用出来ると?」
「それとこれとは別の話よ。とりあえずは、叩き出すほどじゃなかったというだけ」
「そうですか……それでは、私は
「ええ、よろしくね」
こうして
彼と彼女が信頼関係を築く日は、まだ遠い。