裏通りを使った理由は、単なる好奇心でした。先日この国に来たばかりの私は、少々浮かれてしまっていたようです。
この街に留学を決めた理由はふたつ。
ひとつは、私の大切な友人が暮らしている街だということ。そしてもうひとつは、ここが世界でも有数の迷宮都市であるということ。ずっと行きたいと思っていた場所に、漸く来ることが出来た喜び。だからでしょうか。私は『路地裏は危険です』という彼の忠言を軽く考えていたのです。ここは治安のいい街だから、と。
私は、とある貴族の家に生まれました。
貴族といっても大したものではありません。古くから続く、殆ど肩書だけのようなものです。それでも地元では名の知られた家でしたし、暮らしも豊かでした。私が末の三女だったということもあってか、両親はたくさん甘やかしてくれました。だからこそ、少しでも早く恩返しが出来るよう、家族のお役に立ちたかったのです。
現代にまだ残っているとはいっても、貴族が時代錯誤な存在だというのは否めません。実際に私の家は、少し前までは没落寸前だったそうです。そんな私の家を建て直したのが、私の祖父でした。祖父は探索者となり、ダンジョンから持ち帰った様々な資源によって家を再興に導きました。凄いですよね。尊敬する、私の自慢の祖父です。
そんな祖父の影響もあってか、我が家は探索者と密接な関係にあります。
貴族としての仕事も、大半がダンジョンや探索者に関わるものです。もちろん私も、将来はそうした仕事に就きたいと考えていました。あわよくば探索者となり、自らダンジョン探索を、なんて考えたことも一度や二度ではありません。実は今も少し考えているのですが、それはさておき。
ダンジョンの周囲に作られた街、通称『迷宮都市』。
迷宮都市は世界中に点在していますが、ここ九奈白市ほどの規模と発展を遂げている街は、そう多くありません。だからこそ私はこの街で、ダンジョンに関するたくさんの事を学びたいと思ったのです。友人とともに。
「お嬢様、お下がりを」
その結果、浮かれてしまってこの有り様です。護衛を一人だけ連れて外出し、彼の忠告を軽く考え、挙げ句探索者に絡まれる。なんと恥ずかしいことでしょうか。
護衛の彼――幼い頃からの専属執事で、名をルーカスと言います――にも迷惑をかけてしまいました。
「ごめんなさいルーカス……やれますか?」
「お任せを」
前述のとおり、私の家は探索者と密接な関係にあります。当然私も、彼らがどういった者たちなのかは理解しています。荒事にも多少は慣れています。こうした粗暴な探索者は少ないですが、それでも皆無というわけではない。彼らのような輩は、言葉だけでは引き下がらない。それもよく分かっているつもりです。
「お? 何やる気出しちゃってんの? おにーさんには関係ないっしょ」
「黙れ。この方がどういう方なのか、分かっているのか?」
「ヒューッ! カッコいいねぇ! チッ……知らねーよ、美人が居たから声かけただけだっつーの」
軽薄な態度から一転、舌打ちをひとつ鳴らして、男性の目つきが凶暴なものへと変化しました。周囲の男達はヘラヘラと笑うばかりです。
治安がいい街というのは、嘘ではないのでしょう。ですが、市内に長く居着いている者達はともかく、市街からやってくる粗暴者はどうしようもありません。九奈白市のように、人の出入りが多い街なら尚更に。こうした輩は摘んでも摘んでも、いつの間にかどこからか湧いてくるものなのです。まさか街に入るのを制限するわけにもいかず、結局はイタチごっこに終始する。これは迷宮都市に限らず、全ての街が抱える問題でもあります。
「今すぐ消えれば見逃してやる。そうでないなら――――痛い目を見ることになるぞ」
「あ? うぜぇなァ……上等だコラ、やってみろよ」
瞬間、ルーカスが地を蹴りました。
私の目には、殆ど瞬間移動でもしたかのように映っていました。私も一応は護身術を学んでいますが、探索者同士の戦いとは、そんな程度ではどうにもならない世界なのです。
けれど。
次の瞬間私が目にしたのは、地面に倒れ伏すルーカスの姿でした。
「遅ぇんだよ、タコ。その程度でボディガードだァ? なんの冗談だよ、笑っちまうぜ」
何が起きたのか、私にはまるで分かりませんでした。
ルーカスは幼い頃より私に付き従ってくれている護衛です。護衛としての実力を鍛えるため、足繁くダンジョンにも通っていました。順位も四桁台で、決して弱くはない筈なのです。けれど事実として、彼はものの数秒で倒されてしまいました。恐らくは、単純に相手が強かったのでしょう。改めて、この街を見縊っていたと実感します。言葉は悪いですが――――こんなどこにでもいそうな不良達が、まさかこれほど強いだなんて。
「つーわけで、お嬢様は俺らと遊びに行くことが決定しましたー!」
無遠慮に私の方へと近づき、そうして男が私の右腕を掴みます。もちろん抵抗しましたが、私程度の力ではびくともしません。
「ッ……離して下さい!」
「戦利品を手放す探索者なんていませーん! ま、俺らみたいなチンピラ探索者がそもそもいねーんだけどな!」
どうやら狼藉者の自覚はあるようです。それもそうですね。何しろこんなこと、普通に犯罪行為なのですから。探索者協会にバレれば一発で免許剥奪、ついでに刑務所行きです。新たな街に進出して気が大きくなっているのか、この後先考えない行動が如何にも、といったところでしょうか。
ともあれ、絶体絶命です。大声を出せば
そうしていよいよ諦めようとした、その時でした。
この場には似つかわしくない、なんとも気の抜けるような声が聞こえてきました。
「お取り込み中、失礼致します」
右腕を強引に引かれながら、声のした方へと視線を向ける。
「何かお困りでしょうか? 私に出来ることはありますか?」
そこには、やはりこの場には似つかわしくない、大きなカバンを持ったメイドの姿がありました。そのメイドは何故か、頭に紙袋を被っていました。
* * *
路地の角から姿を見せた
「あ? オイオイお前ら、なんか変な女がもう一人が増えたぞ。こりゃあボーナスステージ開幕かァ?」
反射的に『誰が変な女だ』と反論しそうになるが、しかしよくよく考えれば当然の反応であった。後々のことを考え、顔がバレぬようにと紙袋を被っているのだから。誰がどう見たって変な女である。
少女を取り囲んでいる男の数は、合計で五人。
「ッ――――お願いします!
少女が叫ぶ。
直接助けを求めなかったのは、
とはいえ、この場合はそれでは遅い。
「申し訳ありませんが、承服致しかねます。それでは間に合いません」
「なっ――――ではどうすると言うのですか!?」
「こうします」
そう端的に告げた瞬間、巨大な旅行カバンのみを残し、
その場の誰にも視認出来ないどころか、理解すらも出来ない。男達の思考は吹き飛び、脳内が真っ白になる。その刹那、少女の耳へと
「え――――」
少女の喉から、そんな声とも呼べない音が漏れ出す。
そして少女の後方から鳴り響く、耳をつんざく破砕音。遅れてやってきた強風に、少女の髪が大きく靡く。それはまるで、すぐ傍で何かが爆発したかのようで。細めた瞳を、少女が再び見開いた時。そこには、片脚を振り抜いた体勢の紙袋メイドが佇んでいた。恐る恐る後方を振り返れば、雑居ビルの壁を破壊しつつ崩折れた男の姿。荒事に慣れていない少女が一瞥しただけでも、その男が再起不能なのだと分かってしまう。
「……失礼、やりすぎました」
そうして訪れた静寂の中、どこか焦ったようなメイドの声だけが、狭い路地裏に響いていた。