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第4話 難渋苦心(なんじゅうくしん)


 翌日。

 宗祐そうゆう叔父が、工房の者だけでなく、襖絵などであちこちの屋敷の普請場に出ている者までも呼び集め、今回の絵競いについて説明した。

 当然のように、その場に集まったすべての者が口々に参加を望んだ。

 関白様におのれの絵を見て貰える機会など、そうそうあることではないからだ。宗祐叔父は鷹揚おうようにうなずいたものの、最後の一言でその場を凍りつかせた。


「なお、狩野の仕事に穴を開けてはならぬ。狩野の絵は関白様のみのものではない。そのために他のご依頼主たちにご迷惑をかけてはならぬのは当然のこと。

 よいな」

 居並ぶ者たちのざわめきは消え、呻き声すら漏れぬ。


 声も出ぬのも無理はない。

 これで、各現場で指揮を執っている高弟たちは、ほぼ参加できなくなった。

 障壁画は時間がかかる。そして、家の普請の工程と摺合せがされている。つまり、自由になる時間などあるはずがない。


 宗祐叔父は堅物かたぶつ過ぎて、そこの不公平に気がついていない。「ご下命があった絵を仕上げるのは当然のこと」としか考えていないのだ。

 これで、全員の強制参加が前提であれば、さすがに描く時間を作らねばと思ったに違いない。だが、望む者は誰でも参加という取り決めが、宗祐叔父の目を塞いだ。「勝手に参加するのだから、時間も自ら生み出せ」という考えになってしまったのだ。

 間違いなく父は、宗祐叔父がそう考えることまで読んでいただろう。


 高弟ばかりではない。工房の中堅どころの絵師も参加できなかった。

 扇絵は一品物の依頼も数多いが、町衆相手のものは桁が三つから四つも違うほど大量に作られている。それには父が描いた絵を元に、中堅どころが模写をしている。狩野の名で売る以上、模写といえど筆線のおぼつかないものを売ることはできぬのだ。


 そして、狙ったように父の扇絵の新作が町衆に大受けしている。描いても描いても、全て売れてしまう。

 妹の小蝶までもが、毎日駆り出されて絵筆を握っている始末だ。

 そのような中で、ようやく夜半に自分の絵を描く時間を持てても、か細い灯火の元では本当の色などわかるはずもない。灯火の油は極めて高価だ。十分に明るくするほど灯せるわけがない。


 結局は、上洛してきたばかりの腕の覚束おぼつかないであろう絵師と、俺の勝負ということになる。なのに、取り決めはあくまで公正なのだから、父のはかりごとには恐れ入る。

 まぁ、いい。

 これも狩野の家を、狩野の派を守るためだ。どのようなときでも油断せず、力を尽くすのが俺の仕事だ。相手の事情がどのようなものであれ、情は残さぬ。



 とはいえ、それでも執念で描いている高弟、中堅もいた。

 日が経つごとにごっそりと頬が痩けていく者もいたし、夜に昼にと絵筆を持ち続ける指の筋が痙ってしまった者もいた。

 その一方で、上洛してきたばかりで仕事を割り当てられていない絵師たちは、それこそ命を賭して描いた。


 子供のいたずら描きならともかく貴人に見せる絵ともなれば、際限なく金が掛かるものだ。灯火の油に加え、紙も絵具も筆も、絵具の色を壊さぬにかわも、皆高価なのだ。

 すでに、そこからして苦労がある。


 まして、今回は花鳥図である。山水画であれば水墨画にして出費を抑えられようが、花鳥図では色が付いた方が華やかなものになる。そして武家に近い関白様は派手好みであろう。となれば、一色一色それぞれに、何日分もの、いや、何十日もの食をあがなうに等しい高価な絵具が必要となるのだ。


 命を賭して描くというのは、紙に向かって心を込めれば済むことではない。

 それ以前の準備からして、一介の駆出し絵師が土倉酒屋金貸しに土下座して借金するところから始まるのだ。

 だから、それらの者の凄みは俺とて恐ろしい。


 対する俺も、彼らの描くであろうものからそうは離れることはできぬ。

 俺は、狩野の嫡子として、紙も絵具も困りはしない。だが、一枚だけ金泥だの、孔雀石の粉だのを使った絵が紛れ込んでいれば、俺の描いたものと一目瞭然で察されてしまう。そして、絵の腕ではなく、絵の具の色によって選ばれたと言われてしまうだろう。

 一旦そう言われてしまえば、次は高慢で鼻持ちならない跡継ぎと見做みなされることになる。


 つまり、俺とて、高価な絵具を控え色数を抑え、揺るぎない線だけで勝負しなければならないということだ。

 いつもの仕事はできないということになるし、俺の絵を見知っている関白様とて俺の絵をそれと見抜くのは難しくなるだろう。

 難しい勝負自体は望むところではあるが、父が田舎絵師と馬鹿にした者たちの中にも、俺と同じ修練を積んだ者がいるかもしれない。本気で修行しようと思ったら、竹の皮であろうと、洗って使い直せる陶片であろうと、薄く削った木片であろうと、紙などなくても絵は描けるのだ。

 その者たちは俺の絵を知っている。だが、俺は彼らの絵を知らない。そこが限りなく不安ではあった。



 日々、高弟たちが脱落していった。

 無理もないことだ。

 次に、中堅たちの中には過労で倒れる者も出た。朝、工房で顔を合わせると、皆まぶたが腫れぼったく、目が赤い。

 夜を徹して薄暗い灯火のもとで描き、朝の明るい日が差すと絶望を覚えるのだろう。

 砕かれた絵具の色岩は、粒子の大きさが微妙に違うだけで目的の色は出ないものだ。その調合は暗い中ですべてを勘でやるしかなく、仕上がりの色の確認などできるはずもない。

 しかも、描き直せば出費を伴う。そして、出費とは借金である。そのような生活に追われていれば、心身を削られるのは当たり前のことであった。


 俺とて、日々の仕事はある。不安は恐怖になり、俺の筆を縛った。

 だが、狩野の嫡男として俺は勝ちしか許されていない。とはいえ、祖父は昔、俺の絵を見てにんまりと笑ったのだ。

 だから、俺は勝てるはずなのだ。



 かくて、一ヶ月後、符牒ふちょう(※)のみで記名なき花鳥図が二十枚も集まることになった。

 そこから先、俺はなにがどうなったのか知ることすらできなかった。宗祐叔父のやることはあまりに融通とは無縁で、狩野の長子たる俺ですら「勝負に参加した以上は」と、なにも教えてもらえなかったのだ。


 ただ、判定の手順だけは伝わってきた。

 祖父は痩せ細り、かろうじて息をしているような身体なのに、執念でそれらを見た。そして、宗祐叔父がその言も取り入れながら、四枚の絵を選んだ。

 その絵が近衛様の屋敷に運ばれたらしい。


 関白様は選ぶのに苦労し、またあまりにお心を動かされたとのことで、描いた四人は言葉を賜れるということになった。


 その四人の中には、当然、俺もいた。


符牒ふちょう ・・・ 記号

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