「今からあなたに催眠をかけます……あなたは今とってもリラックスして……全身の力が抜けて実に心地いい状態です……私が『はい』と声をかけたら……あなたは豚になってしまいます……」
スーツ姿の男が顔を近づけ、落ち着いた声でゆっくりと囁きかける。
「では……いきますよ……」
そろそろかな。私は彼の右肩にそっと触れた。
「……あれ? 先生、いったい何が起きたんです?」
彼はキョロキョロとあたりを見渡し、ハトが豆鉄砲をくらったような顔をしている。
「あなたは今、私のかけた催眠にかかっていたのです……催眠術師になるという催眠に」
「すごい! はっきりとは覚えていませんが、確かに先生になにか囁きかけていた気がします」
「私があなたの肩に触れると催眠術師になり、もう一度触れると解ける……これがトリガーでした」
幼い頃、テレビの催眠術の特番を夢中で観ていた。有名人が次々と催眠術師の言いなりになっていく様を見て、私の将来の夢は決まった。
夢を叶えて三十年……とにかく食えない。いまやテレビで催眠術の特番など一切ない。その技能を活かしセラピストとして一応生計は立てているものの、カツカツの生活が続いている。
なんとか稼ぎを増やしたい。その一心で、一般人向けの催眠術習得講座の副業を半年前から始めた……本当はこちらが本業のはずなのだが。
先程、私が催眠術をかけた彼はその受講者。半月前から来ているが……恥ずかしながら、受講者第一号であり唯一の受講者だ。いつもスーツ姿なので働きながら通っていると推察している。そして、おそらく同年代。それ以上の情報は知らない。
「いやー、驚きました。催眠術ってこんなに簡単にかかってしまうんですね」
「もちろん催眠をかける側の日々の鍛錬あってこそです。私のレベルに達するまでには数年を要すでしょう。しかし、先程の催眠術師になった姿を見るに、あなたはなかなか筋がいい。すぐにでも催眠をかけられるようになるかもしれませんよ」
「えー、本当ですか?」
彼は唯一の受講者……言わば貴重な食い扶持だ。今後通い続けてもらうためにも、少しくらい大げさに褒めておかないと。
「先生、お願いがあるんですが……完全に催眠を解く前にもう一度だけかけてもらえませんか? 」
「構いませんが、どうして?」
「いや、もう一度催眠にかかる感覚を味わっておきたくて」
「わかりました。では、いきますよ」
私が再び彼の肩に触れると、途端に顔つきが変わる。
「……今からあなたに催眠をかけます」
どうやら彼は催眠にかかりやすい体質のようだ。もっとも、それは悪いことではない。得てしてそのほうが催眠術師としては向いているのだ。
「いいですか……リラックスして……心地よくなってきます……私が指を鳴らしたら……あなたは催眠術師ではなくなり……ただの普通の人になります……」
……妙なこと言い始めたな。まぁいい、所詮は素人の催眠術、かかるわけがな……。
パチン。
指の音と一緒に、頭の中で何かが切り替わった気がした。
「僕は……いったいここで何を?」
「あなたはただの普通の人……そして私が催眠術師」
「え?」
「私があなたに催眠をかけたのです」
催眠? なんで僕みたいなただの普通の人がそんな……ただの普通の人?
「ただの普通の人って……なんだ?」
「それは……」
「普通とはなんだ? それは相対的なものか絶対的なものか」
「そんな哲学的な」
「教えてくれ、普通ってなんなんだ! 僕はいったいなんなんだ!」
言いしれぬ恐怖を感じた僕は、思わず両手で男の肩を掴み揺さぶった。
「……ちょ、ちょっと先生! 乱暴はやめてください!」
「誰が先生だ! 私は……私はただの普通の人だ! おのれ催眠術師!」
「たった今催眠は解けました! 私はもう催眠術師じゃない!」
「自分でさっき名乗ったじゃないか! 二重人格か!」
「こっちのセリフですよ! とにかく一旦落ち着いて!」
その言葉にとりあえず従った僕は、男から事の経緯を聞いた。
「……なるほど。じゃあ、催眠術師だった私が受講者であるあなたに催眠をかけたと」
「ええ、そうです。それによって催眠術師になった私があなたに……おそらくなにか催眠をかけたんでしょう」
「そこのところがなぜ曖昧なんだ?」
「催眠状態の時に起こったことはおぼろげにしか覚えていないのです。先生が自分が催眠術師だったことを覚えていないのと同じですよ」
確かに……それはごもっともだ。
「で、僕はこれからどうなるの?」
「私が催眠術師だった時に、何を催眠のトリガーにしたかでしょうね」
「……もし、それがわからなければ?」
「……一生、催眠状態のまま」
「おい貴様! なんとかしろよ!」
僕はもう一度、男の肩を強く揺さぶった。
「……今からあなたに催眠をかけます」
「おっ、催眠術師のお出ましか? さぁ早く僕の催眠を解け!」
「催眠術師なのですから、せっかくなら催眠をかけさせてください」
「だから、もうかかってんだよ! 知ってんだろ!」
「取り乱さないでください……さぁ力を抜いて……リラックス……リラックス……」
なぜだ? この男の目を見ると逆らえない。なんだか……ぽかぽかしてきた……。
「いいですか……私があなたの手を握ると……あなたはとびきりの美少女になります……」
はぁ? そんなバカな? だって、僕はただの普通の人……。
おじさんの冷たい手の感触が、アタシの右手に伝わってきた。
「ちょっと、触んないでよっ!」
慌てて手を振り払う。おじさんはなぜか笑いをこらえながらアタシを見ている。
「なに笑ってんの? おじさん、キモいんですけどー」
「……そのセリフ、そっくりそのままお返しするよ」
「はぁ? 意味わかんない」
なんなのよ、うら若き乙女をつかまえてっ!
「いやぁ……君はフフッ……本当に……クックック……美少女だねぇ」
「笑っちゃってんじゃん、もう!」
失礼しちゃうわっ! アタシはおじさんの肩を軽くはたいた。
「……先生?」
「先生? アタシのこと言ってんの?」
「また変な催眠にかかってる……私は私の力が怖い……」
「変とはなによ、変とは! 野球部のカレピに言いつけてやるんだからっ!」
「そんな設定まで……催眠術おそるべし。あの、とにかく先生、どうにかして元に戻りましょう」
「元に戻るってなんのこと?」
「詳しい説明は省きます……きっとどこかに催眠のトリガーが隠されているはずなんです」
そう言うとおじさんは、いきなりアタシのカラダに手を伸ばしてきた。
「な、なんなの、やめてよっ!」
「いいから、あの、すぐに終わるから」
「いい加減にしてよ、この変態!」
「今、客観的に見て変態はどっちかなぁ?」
「助けてー、ダイスケー!」
「カレピの名前まで決まってんのか! もうこうなったら仕方ない……窓ガラスに映った自分を見ろ!」
おじさんから必死で逃げ惑いながら、アタシは窓に目をやった。
これが……アタシ?
……どれくらい時間が経ったんだろ。体育座りで泣きじゃくるアタシをおじさんは慰めてくれた。
「残酷だけど、これが現実なんだ。君は催眠が作り出した存在なんだよ」
「……ダイスケは?」
「いない、いるわけがない」
「……わかった」
「じゃあ、とりあえず立って、ほら」
おじさんが差し伸べた手。その手をアタシはおずおずと握った。
僕は……悪い夢でも見ていたのだろうか。
「なぜ目が腫れているんだ?」
「あっ、先生ですか?」
「いや、僕だ。ただの普通の人だ」
「一段階ずつか……でも、確実に前進してますよ! このトリガーはもうわかってます。さぁ、私の肩に触れてください!」
「よし、頼むぞ!」
僕は男の肩を力強く叩いた。
「……私は催眠術師」
「出たな! さぁ、催眠を解いてもらおうか!」
「……わかりました。正直言って、先程の美少女に関してはやりすぎたと反省しています」
「あんまり何があったのか覚えてないけど、わかりゃいいんだよ、わか……」
パチン。
なぜだろう、ひどく疲れている。私は頭の芯が痺れているような感覚を覚えた。
「いったい……私の身に何があったのですか?」
「私があなたに催眠をかけたのです」
「そうか、催眠術師になる催眠をかけたあなたに催眠をかけられ……頭がこんがらがってきた。もういい、元に戻しますよ」
私は彼の右肩にそっと触れた。
「今度こそ……先生ですか?」
「ええ、そうです」
「やった! ついに元に戻った!」
大いに喜び私に抱きつこうとしてきた彼を慌てて制止する。
「ストップ! お互いの体に触れるのは、今はまずい予感がします」
「……そうですね」
「とにかく今は、一刻も早く完全に催眠を解きましょう。よろしいですね?」
私の提案に、彼は心底ホッとしたように答えた。
「はい!」
オレは四つん這いになって、鼻を鳴らしながら床に顔を擦りつけた。