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第36話

第36話


 私は図書館から、翡翠宮に戻る。少し疲れたから、目を閉じて休む。

 明日は、陛下に朝食を一緒にどうかと誘われている。陛下とは、夜の時間を共にするのではなく、朝に呼び出されて、朝食を食べながら政治談議をするのが恒例行事となっている。これでいいのだろうか。だって、私は一応、妃なんだけど。


 でも、陛下と男女の仲になるということはどこか遠くの世界の出来事にように思えた。私たちは、政治的なパートナーに成り得ても、夫婦に成れるのだろうか。むしろ、こういう関係になって、遠ざかってしまっているようにすら思えた。陛下は、誰と接しても、どこか壁を作っているように思えた。それは、皇帝という立場上、仕方がないことだとはわかっている。族長である父上を近くで見てきたからこそ、わかる。でも、職務の重み以上の断絶を彼から感じてしまう。


 よく考えれば、彼には身内で支えてくれる人がいない。皇太后さまですら、引きこもられてから、会えていないのだろう。この大順という大国の皇帝という責務の重さを一手に引き受けなくてはいけない。それも、私とほとんど年齢が変わらない若さでだ。


 梅蘭さまは、身内に近い女性だと思う。あんなに一途に自分のことを考えてくれる女性とはなかなか巡り合えない。それでも、彼女は陛下に愛されていないと察してしまっている。どれほど、陛下の孤独が深いのか。それをうかがえてしまう。


 そこまで、冷徹にかつ機械的に動ける人間がいるのだろうか。


 そんなことを考えていると、この前の女暗殺者から助けてもらったシーンを思い出してしまった。松明に照らされた凛々しい表情。弓を射る際に無駄のない美しい所作。そして、抱きかかえられた際の力強さ。


 それらがどんどん思い出されて、私の顔を紅潮させる。胸の高鳴りが止まらなくなり、苦しくなる。明日は何を話そうかと考えると、別の喜びのような感情が心から噴き出ているようにすら思えた。


「会いたい」

 思わず言葉が漏れる。その言葉を慌てて飲み込んだ。

 どうして、どうして、こんな普通の女みたいなことを言っているんだろう。ここに来たのだって、政略結婚の果ての結果だ。そもそも、陛下は私を政治顧問くらいにしか思っていない。こんな気持ちを抱いてしまったら、この後はずっと苦しい思いをするはずなのに。


 そもそも、私は陛下に大見えを切ったじゃない。私は、2国間の平和を守るためにここに嫁いだんだ。陛下に愛されるとか、愛するとか、そんな俗物的なことは求めていないはずなのに。どうして、私は陛下のことを考えるだけで、こんなに心が乱されるのかしら。


 この気持ちが陛下に伝われば、きっと距離を取られてしまうだろう。陛下にとっては不要な気持ちだ。彼が欲しいのは私心無く、自分の考えを実行できる忠実な部下のはず。


 私もそうだ。いくら、事態が改善されてきているからって、私の存在はあくまでも両国間の和平の象徴であればいい。仮に、何かの拍子に子供でもできてしまったら、その子にまで重く苦しい運命を背負わせることになってしまうのだから。


 落ち着こう。芽衣にお茶でも淹れてもらって……


「翠蓮様、翠蓮様ってば。大丈夫ですか」

 目を開いたとき、芽衣が心配そうにこちらをのぞき込んでいた。思わずびっくりして、悲鳴をあげそうになる。


「芽衣……」


「どうしたんですか。珍しくウトウトしていたので、寝かせてあげようと思っていたら、急にうなされ始めて、ビックリしました」

 そうか、いつのまにか寝てしまっていたんだ。ちょっと、恥ずかしくなる。

 どんな夢を見ていたのだろうか。自分が考えていたことがはっきり覚えているせいで恥ずかしくなった。


「悪い夢を見ていたみたいね。芽衣、悪いんだけど、お茶を頂けないかしら。気分が落ち着くやつを」


「もちろんです。あ、そうだ、翠蓮様。明日って午後は何か予定がありますか?」


「午前中は陛下との朝食の予定が入っていて、それから図書館に向かうつもりだけど、午後は特に予定がないわ」

 最近の朝食会は、話が弾みやすく、下手をすると2時間以上行われたりもする。それから陛下の執務の休憩用に用意されるお茶とお菓子まで大長秋様と一緒に食べたりもする。陛下の執務が遅れないか心配だけど、それを口にしたら、陛下は「それよりも翠蓮の考えを聞いていたりする方が有意義だ。特に商業政策については、翠蓮はこの大順のどんな大官僚よりも詳しく考えが豊富だからな」とおだててくれて、つい話し込んでしまうのだ。


「よかった。じゃあ、もしよかったら、みんなで梅を見る会をしませんか?」


「梅を見る会?」

 たしかに、少しずつ梅が開花している。きちんと見るのは初めてだから、思わず見とれてしまうんだけど、次の予定もあってなかなかゆっくり鑑賞できないのが残念だった。


「ええ、私聞きました。東の島国では、権力者たちが桜という綺麗な花を見ながら、盛大な宴会をしたそうです。さすがに、私たちはお酒を飲めませんが、美味しいお茶やお菓子を持ち寄って、お世話になっている人たちとゆっくりしたいなって。私もたくさんの人に、ハーブ畑を手伝ってもらっているので‼」


「とても楽しそうね。わかったわ、私も参加させていただく。じゃあ、私のお金を使って、いくつかのお菓子を用意しておいて」


「その言葉を待っていました‼ もちろんです」

 芽衣はルンルンとその場をあとにした。どうやら、この企画のために、配膳部にも協力を仰いだり、毒見役の手配もしてくれているらしい。まあ、芽衣が横に控えているのだから、ほとんどの毒は彼女によって対処できるはずなんだけど。あとは、きっと私からの出資を待っていたんだと思う。たしかに、みんなのお小遣いでお菓子を集めるのもいいとは思うけど、郷に仕送りをしている女官や下女もたくさんいる。その中で彼女たちに大きな負担をかけるのは忍びない。私は、ここに来る前に、嫌がらせをされた腹いせに、自分の資産はほとんど持ち出しているからお金に余裕がある。


 私が元敵国という場所でも何不自由なく暮らせるのは、芽衣をはじめとする侍女や女官、それを支える下女たちのおかげだから。たまには、少しくらい贅沢をしてもいいだろう。そもそも、私は化粧品や服には無頓着だから、必要最低限なものを買うくらいで、ほとんど出費がない。あとは、司馬にお礼で買った歴史書とかそんなくらいだ。


 梅を見る会。それも楽しみね。

 明日は陛下と会うことができるし、その後はたのしい宴会が待っている。幸せな一日になりそう。そう確信しながら、私は目を閉じた。ゆっくりと、睡魔に包まれていく。



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