第35話
「正史ってわかるよな?」
いきなり専門用語が飛んできた。
「ええ、たしか王朝の正式な歴史のことよね。中華の王朝は、易姓革命でされ以前の王朝を倒したら、新しい王朝が学者を集めて、先の王朝の歴史を編纂するのが普通だって聞いたことがあるわ」
その言葉を聞いて、司馬は満足そうに笑う。
「そうだ。ただ、その正史は、勝者の言葉でつづられる」
「勝者の言葉?」
その言葉に思わぬ皮肉さみたいなものを感じてしまった。
「つまり、新しい王朝に都合が良い事実だけで書かれているんだよ。易姓革命っていう考え方は、先代の王朝が腐敗して、民に圧制を強いて、徳の断絶が発生した場合は、王位簒奪も可能とするんだよ。だから、先の王朝の末期の君主は、けちょんけちょんに貶められる」
「そうしないと、先代の王朝を滅ぼした正統性を主張できないからね」
「そうだ。過去の歴史書のほとんどは、王朝の始祖やその直系の後継者たちのことはよく書かれていることが多い。彼らの治世の時に、経済は発展して、人口は増えて、どんどん庶民も豊かになった。でも、王朝が腐敗したことで、天が怒り、天変地異や飢饉、病気のまん延が発生し、それに耐えかねた人々が反乱を起こして、王朝が後退する。これがひとつの定番の流れなんだよ」
さすが、歴史書にずっとかじりついているだけあって、司馬はもっともらしく解説してくれた。
「じゃあ、あなたは敗者の言葉をのぞきみたってこと?」
私が察したことを話すと、彼は頷いた。
「そうだ。順はいつものように先代王朝の正史を作ったわけだが、そこからあえて採用されなかった当時の記録もたくさんある。僕は本物の歴史を知りたかったんだ。だから、順に不都合な真実が書かれた歴史書も集めた。そして、正史を修正した本物の歴史を描き切るつもりだった。それがばれて捕まり、今は宦官だけどね」
彼はどこか寂しそうに笑っていた。
「でも、あなたは満足していると思うけどね」
こちらがそう言うと彼はにっこり笑う。
「当たり前だ。あの作業の過程で、こちらは見ることもできない歴史を知ることができた。集めた史料はすべて没収されて焼かれてしまったが、僕の頭の中の知識までは奪うことはできない。頭の中で、どんな歴史書を作ろうとも、誰も僕を処罰できないだろう。僕は宦官になったことである意味、自由になったんだ」
私の友達はそう言って満足げに笑う。その覚悟はどこか誇らしげだった。
「そうだ、もう一つ聞きたいことがあるのだけど」
歴史についての話を終えて、ひと段落したあとで、また質問をすると、彼はとてもめんどくさそうな顔をした。
「なんだよ?」
「あなたが仕えている皇太后さまに、私はご挨拶した方がいいのかしら?」
梅蘭さまには、呼ばれてしまったから……こうなったらきちんと挨拶をした方がいいのではないかと心配になった。
「なんだ、知らないのか?」
彼は不思議そうな顔をしていた。
「どういうこと?」
「皇太后さまは、皇帝陛下の弟君を失った悲しみで、精神を病んでしまって、面会はできないよ。陛下ですら、ほとんど会えていない。会えるのは、僕たちみたいにそばに仕える宦官や女官くらいだ」
思わぬショックを受けてしまった。陛下に弟君がいたことは知らなかった。
「弟君はどうして亡くなったの?」
「さぁな。僕たちみたいな下っ端には、病死くらいにしか伝わっていないんだ。だから、キミは皇太后さまには会えない、挨拶などは不要だよ」
それはよかったけど、また謎が深まってしまった。
死んでしまった弟君か。もちろん、後宮内では珍しいことではない。幼児の死亡率は高いのは、中で外でも変わりはない。だから、皇帝の子供と言えども、天の采配には逆らえないところがある。