第31話
今日は朝のハーブ畑の手入れも終えて、洗濯当番で井戸の近くに来ている。重い水を持って何度も移動するから、大変だ。朝から雨が降ったりやんだりを繰り返している。また、振り出す前に、井戸の水を持ち帰ろう。できる限り急いで水を汲んでいく。
何か簡単に洗濯ができるようなものがあればいいのに。そう思いながら、冷たい水と格闘していた。
「あら、芽衣じゃないの。今日は当番なのね」
井戸から水を汲んでいると顔見知りの下女さんがあいさつしてくれた。たしか、彼女は炊事係の琴ね。この2階建ての長屋みたいな場所で寝取まりしているらしい。
「琴(ちん)‼ 今日は仕事に行かなくていいの?」
琴は、たまに私のハーブ園を手伝ってくれる子だ。どうやら少数部族出身で、私のこともそれほど差別的には扱わないから、話しかけやすくてすぐに仲良くなってしまった。お礼にいつもお菓子やお茶を渡している。彼女は、それを目当てに手伝ってくれているので、私たちはある意味で共犯関係のようなものだ。
「うん。休憩時間だよ。同じ部屋の宛(ワン)が体調を崩してね、2階で休んでいるから様子を見に来たんだ。ちょっと、様子を見たら、また戻るよ。水とか変えてあげるの」
彼女は優しい。宛という女の子は知らない名前だ。
「宛っていう子は、同じ炊事係なの?」
「そう。ほとんど同じ時期に後宮に仕えて、同じ職場で、部屋も一緒だから、私たちはすぐに仲良くなったんだよ。今でも親友同士」
「そっか。うらやましいな」
私も翡翠宮のみんなとは仲良くなってきたけど、親友と呼べる人はいない。翠蓮様は家族みたいに仲が良いけど、自分の使える主を親友なんて言うと罰が当たりそうだ。
「でもね、もうすぐ、私たちもお勤めの期間が終わるから、離れ離れになっちゃうの。悲しいな」
そうか琴は任期付きの下女なのか。そうなると、彼女と一緒に過ごせる期間は、そろそろ終わりなのか。寂しくなるな。今では何人か、女官や下女が畑を手伝うようになってくれていたけど、そのつながりもどこかで終わりを迎えてしまうのかもしれない。意識はしていなかったけど、別れの季節を予感させられるのは、ちょっと切ないな。そういえば、もうすぐ梅の季節だ。なら、皆で梅の花を見るのも楽しそうだと思った。お菓子とかを持ち寄ってさ。今度、誘ってみよう。
「じゃあ、またね」
急いでいるという彼女をこれ以上、邪魔するのも悪くて、私は仕事に戻った。今日は特に仕事が多いから、何度も井戸を往復しなくてはいけない。
30分作業した後、また井戸に戻ってくる。
「さすがに、疲れた。甘いものでも食べたい」
そう泣き言を言いつつも、水を汲んでいると雨が降ってきた。
「えー、もう最悪」
そう悪態をつきつつ、下女たちが寝泊まりしている2階建ての長屋の屋根の下に逃げ込む。ここは屋根も大きいから雨にぬれずに済む。さっきから降っては止みを繰り返しているから、すぐも止むだろう。その間、休憩しながら、雨宿りだ。でも、ある意味で合法的に休憩ができて少しうれしい。水を運ぶのも重労働だし、今日は運悪く洗濯物が多い日に当たってしまったのだ。もし、雨にも濡れて、作業をしていたら風邪をひいてしまうかもしれない。風邪は、万病のもとだ。みくびってはいけない。
そう自己正当化しながら、暇なのであたりをきょろきょろ見渡す。誰かいれば、待っている間におしゃべりでもしようかなと思っていた。不思議なことに、建物の陰に、靴が落ちているのが見えた。誰かの落とし物だろうか。それに近づく。
すると……
「えっ、琴……⁉」
建物の陰には、さきほどおしゃべりした琴が頭から血を流して倒れていた。抵抗したのだろうか。彼女の身体の近くには桶の残骸が残されている。ところどころに血が付着しているのが生々しく痛々しい。すでに、彼女の身体はずぶぬれだった。雨が降ってからしばらく放置されたみたいに。私はあわてて近づき、様態を確認する。意識はないが息はあった。血はそこまで多くはないが、かなり腫れている。何かで殴られたものだと思う。でも……
「どうして、足跡が、私と琴のものしかないの?」
今日は一日中雨が降っているせいでぬかるんでいるのに、足跡は2人分しかない。
「いったい、誰が琴を殴りつけたのよ?」
まさか、幽霊や悪霊⁉ 自分の血の気が引いていった。