第12話
騒動の後、私は疲れて、歴史書の翻訳をそこそこに早めに床につくことにした。
早く寝たせいで、次の日は早く起きてしまう。なにか時間を潰そうと、起き上がろうとすると、当番の女官が物音を聞きつけて、あわてて部屋に入ってきた。
「いけません、翠蓮様。決まりでは、辰の刻までは起きてはいけないことになっているのです。どうか、もう少しお眠りください」
あまりの窮屈さに思わずため息がもれてしまった。
「どうして? 何か国の法律にでも書いてあるの?」
「書いてはありませんが、昔からそうなっているんですよ。だから、私たちが勝手に変えることはできないのです」
まるで、泣きつくように言われてしまい困ってしまう。おそらく、私が外に出たら彼女が叱られてしまうのだろう。それもそれでかわいそうだ。
「まったく、後宮というのは面倒なところね。わかったわ。なら、部屋から出ない。でも、私はこの部屋で明るくなるまで本を読んでいるから、それくらいは見逃してちょうだい」
彼女は少しだけ悩むような仕草を見せた。こういう時はたぶん妥協が近いはず。なら、押していくだけね。
「大丈夫よ。私を監視しているのは、あなただけでしょう。私が誰かにこのことを漏らすわけがないわ。あなたも面倒ごとを引き受けなくて済むし、私のわがままを聞かなくてもいい。お互いに利益があるでしょ」
お互いに利益があると聞いて、彼女はしぶしぶうなずいた。
とりあえず、暇はつぶせるわね。朝の身支度の時間までは、もう少し作業をしよう。
集中して作業をしていると、さっきの女官が部屋に入ってきた。
「お時間です」
そう言って、去っていく。
作業を終えて、寝床に戻れということだろう。本当にこんな非効率なことをしなくちゃいけないなんてね。心の中で文句を言いながら、寝たふりをした。
「おはようございます、翠蓮様」
髪を結う道具をもって係の女官たちが入ってくる。
「翠蓮様ぁ、今日は皇帝陛下が、朝食をご一緒したいとおっしゃっているそうですよ」
思わず「ゲッ」と変な音がのどから洩れてしまった。この女官は体格がよく、おしゃべり好きで、ずっと話続けている。じっと待つだけは暇なので助かるけど、最悪の情報がもたらされた。
さすがに不敬すぎるので、慌てて弁解する。
「ごめんなさい、びっくりしすぎて、変な声が出ちゃった。あまりにも光栄だわ」
最後のは絶対にわからないだろう嫌味だ。もちろん、私たちの事情を知らない女官たちは言葉通りに受け取ったはずだ。
「そうですよね。女であれば、誰でも憧れるものです。皇帝陛下には」
私は無理やり嫁がされただけなんだけどね。そんな憧れを抱いたことはなかったなと愛想笑いでごまかした。
これで味がわからない朝食を食べなくちゃいけないのか。嫌な気分になりながら、身支度を終えた。
※
私は皇帝陛下の部屋で待たされる。この後宮のめんどくさいところは、時間がぴったり決まっているところだ。皇帝陛下は、すでに4時間前に起きていて、政務をしたあとに、朝食となる。そんなに朝早くから仕事というのもすごいことだ。ただ、あの皇帝陛下はかなり優秀だと聞いている。
そもそも先代の皇帝は、武断政治を国是としていた。税金が足りなければ、領土を増やして、権益を増やせばいい。そのためには、自国の産業発展よりも領土拡張を優先していた。その結果が、国内の基盤がボロボロになった。この大国は、根元から腐り始めている。
だからこそ、長年の宿敵だった西月国との和平の道を選んだんだ。
ここに私を呼んだということは……何かしらの政局が動くということだろう。祖国とは離れた場所で、ごたごたに巻き込まれてしまう自分の生まれた星を呪ってしまった。
「待たせたな、翠蓮」
前回の冷たい口調そのままに彼が入ってきた。
「いえ、皇帝陛下。この度は……」
この決まりきった場所にふさわしい挨拶をしようとしたが、彼は不機嫌そうに顔を横に振った。そんな型通りの挨拶は不要だということだろう。
「皆の者。翠蓮と大事な話がある。人払いを。さあ、あとは腹を割って話そう」
まさか元敵国の姫と二人っきりになるとは。昨日、暗殺未遂にあった権力者とは思えないほど豪胆な人なのかな。
「では、お言葉に甘えて。今回はどういったご用件ですか」
「ふん、やはりおもしろいな。この国でそこまで私に言い返す胆力がある人間は、今はお前くらいだ」
「それは陛下もでしょう。いくら別の暗殺犯が捕まったからって、私は怪しまれた側の人間ですよ。信用しすぎているのではありませんか」
この発言を待っていたかのように陛下は笑った。
「ふむ。ここで私を暗殺するのか。だが、凶器は隠し持てないはずだぞ。着替えの際に、女官が着替えを手伝うのは、私の安全を守るためでもある。そして、この監視の目をかいくぐって、私と二人きりになることができた暗殺者なら、殺されても構わない。そこまで優秀な人間なら、殺される前にこちらに仕えないかと一度誘ってみるがね。その結果、断られたら、自分はそこまでの器だったということに過ぎない。皇帝の代わりなどいくらでもいる」
狂気すら超えるほどの達観した死生観だった。普通の権力者なら、自分の命が奪われることを一番恐れるはずなのに。”無私”に近いものを感じた。この人にとっては、皇帝という自分ですら、巨大な帝国の歯車に過ぎないと理解している。だから、自分の暗殺という最大の危機でも、国家のために人材を登用したいという発想になっている。どうしたら、まだ若い皇帝がここまですべてを投げうってでも国家に仕えようとしているのか。
「ご立派な考えだとは思いますが、そんなこと言われても困ります」
「ほう、立派か。この考えを聞いた、妃たちは、みな、私を否定するのだぞ。陛下の代わりはどこを探しても見つかりません。皇帝の命は、なににも代えられないものです。くさいセリフだ。そんなことを言われても、私は嬉しくない」
この前の冷遇が嘘のように、今日の陛下は良く笑う。
「今回の暗殺未遂事件。翠蓮は、背景に何があるのか推察はできるか」
目の前の男は、まるで、友人と謎解きをするかのように、にこやかな笑みを浮かべていた。冷徹な皇帝と言われているはずなのに。思わずドキリとする。
こちらが試されている。
「本来なら、推測でお話をするべきではありませんし、妃の私が口を出すべきではありませんが……陛下はそんな発言は求めていませんよね」
「もちろんだ。そんな話をしたくて、お前をここに呼ぶわけがないだろう。そんな当たり前の発言を求めているなら、ここに呼ぶのは翠蓮以外の誰でもいい。お互いに時間を大事にしよう」
「おそらくは、大順と西月国の関係改善を疎ましく思う誰かの陰謀でしょう。陛下の政治は、冷徹に見えつつも、かなり進歩的です。長年の宿敵との和平によって、民や国家を疲弊させ続けてきた戦争を終わらせた。その浮いた予算で、産業の振興に挑戦し、芸術や商業作物の生産も増えてきている。そして、この先は、商業も活発化していくことで、やがて、税が増えていき、最終的には傾いていた国家財政も再建できる。そして、国家財政が向上すれば、次は兵役と租税で疲弊した農民に対して、減税政策を行い、農業の再建も目指す」
「なるほどな」
正解かどうかも言わない。だが、口元は笑っていた。
これは、無言のイエスということね。
「ですが、それに反対の人間もいる。戦争を生業にしてきた武官や戦争経済に寄生した一部の大商人などでしょうね。自分たちの既得権益を減らされそうになっている保守派たちが反発しているということでしょう」
「……では、自分がここに呼ばれた理由はわかるかな」
陛下は、スープに手を付けた。こちらも、それを待って食べ始める。
「わからなくはありませんが、正直に言えば、やりたくはありません」
「ふん、そう言うな。呉越同舟という言葉もある。出自を考えれば、まさに私たちのためにあるような言葉だろう?」
「そうですね。私も民をこれ以上苦しめるのは、ここに来た意味はありませんから」
「ならば、協力してくれ。後宮改革と裏切り者をあぶりだすためにな」
断れるわけがなかった。私に決定権などない。
「私は何をすればいいのですか?」
平穏になるはずだった後宮の日常がもろくも崩れ去っていくのを感じた。
こんなはずじゃなかったんだけどな。思惑が外れすぎている。
「実は調べてもらいたいことがあるのだ。私たちは利害が一致している。お互いに敵だらけの後宮だが、敵の敵は味方の理論だ。手を組もうじゃないか」