「とりあえず、助かったわ。本当にありがとう」
図書館で、司馬に会って、昨日訳した分を手渡す。そして、頭を下げた。
「やめてくれ。僕は、この歴史書が読みたかっただけだし、たまたま役だっただけに過ぎない」
「それでも、あなたが協力してくれなかったら、私は本当に危ない立場だったもの。あなたは、私たちの恩人よ」
「ふん、勝手に言ってろよ」
「ねぇ、欲しいものとかない? 俺にプレゼントしたいわ」
「……ある」
かわいい反応で思わず笑顔になってしまう。私に弟がいたら、こんな子だったのかもしれないわね。
「なに、遠慮しないで言ってね」
「その、史記の新しい注釈本が欲しいんだけど」
「わかったわ。今度注文しておく。題名を教えて」
私はほとんど化粧品や服を買わないから、その分書籍代にお金を回すことができる。いくら高いと言っても、華美な衣服と比べれば、安いはず。それに、芽衣にもなにかプレゼントしたいわね。今回は彼女のおかげで助かったのだから。
※
―皇帝視点―
牢に繋がれたかつての妃をにらみつける。
「皇帝陛下、どうかお情けを。私はあなたを殺そうとしたわけではないんです。ただ、あの敵国のスパイを排除しようとしたのです。あくまでも、あなたのことを思って……」
まったく、最後に顔だけを見に来ただけなのに。すでに、こいつの実家には兵が向かっているだろう。おそらく、この女の単独犯だろうが、逮捕して尋問後に家財は没収し、庶民に落とす。この女は実行犯だから、死は免れない。
「一つだけ聞きたい。どうして、毒薬を統一しなかった?」
女は半狂乱に叫び続けている。
「知らなかったの。用意されたやつをそのまま使っただけで……別の種類だって知らなくて。あっ……」
焦りで口が滑ったのだろう。
こちらもそれを見逃すわけにはいかない。
「誰から指示を受けたのか、言えば、命だけは助けてやってもいいぞ」
これはただの後宮の嫉妬から発生した事件ではない。あわよくば、皇帝暗殺か大順と西月国の和平を邪魔するための陰謀の可能性がある。
「言えないんです……」
「ならば、死ぬだけだ。そんなに若くして死にたいのか?」
「違うんです。言えば、私だけじゃなくて、家族にまで危害が……」
処刑を先延ばしにして、この女の口を割らすしかないな。部下にそう指示をしようとしたところで、女は口から血を吐き出して苦しみ始めた。
「なんで、わたしまだ……」
嫉妬や後悔がにじんだ最期の言葉の後に、女は苦しみのあまりにもだえながら、痙攣をはじめて動かなくなった。食事に遅毒性の薬物が混ざっていたのか。だが、まだこの女の実家がある。たしか、元・礼部尚書の祖父がいたはずだ。
しかし……
「陛下。兵がこの女の実家に向かったところ、すでに火が回っておりまして、生存者はおりませんでした」
本当に手際が良すぎるな。これで今回の事件の真相は闇の中だ。
「大長秋を呼んでくれ。今後のことを協議したい」
本当に信用できる部下は、数える程度しかいない。自分の孤独感に心が押しつぶされそうになりながらも、止まるわけにはいかな。
止まるにしては、流した犠牲が重すぎる。
今回も、私が皇帝でなければ、起きなかった事件だと思う。無駄な血が流れてしまった。自分の皇帝としての器の小ささを痛感しながら、後宮へと戻る。
※
都督と大長秋が集まっていた。このふたりは、信頼できる相手だ。
「陛下、やはり何かしらの陰謀を感じますね。遺体には、斬られたような跡もありましたが、すべて焼けてしまったせいで、深くはわかりません」
白都督は神妙な顔をする。都督とは地域の軍政・民政をつかさどる役人だ。彼は帝都が属する地域を任せている。軍事力を持った知事ということで、皇帝に次ぐほどの権限を持っている。政権のナンバー2。40代の軍人上がりだが、数々の戦争で戦功をあげており、民政家としても優秀だった。今回の事件では、妃の実家に対して、兵を差し向けた際に責任者だった。
彼は申し訳なさそうに口を開いた。
「毒を仕掛けたはずの食事係の宦官も遺体で見つかりました。完全に口封じされてしまったとみるべきでしょうな」
こちらは完全に後手に回ってしまったようだ。やられた。
「元尚書クラスも関わっていると考えれば、どこに敵がいるかわからないな。やはり、保守派の反動はかなり強い」
自分がそう言ってまとめる。先代の皇帝は、かなり積極的な政治家だった。各所で戦争を起こし、英雄色を好むで後宮も拡大した。大順の版図は、先代皇帝が最大にした大英雄だが、現在はその反動を受けている。
戦争が頻発したことで、財政が悪化し、後宮から発生する出費も増え続けている。
さらに、戦災の影響で、民も疲弊しており、これ以上の増税はかなり厳しいため支出を抑えて、産業復興に予算を回したい。それが、皇帝としての私の基本方針だ。
その一つの成果が大順と西月国の和平だ。西月国は強力な騎馬兵を持っており、商業国家としても栄えている。そんな大国と和平し、交易が可能となれば、こちらにもたらされる利益はかなり大きなものとなる。
だが、戦争や後宮には、すでに既得権益が発生している。さらに、西月国は長年の宿敵。戦争を続けた方が利益の生まれる保守派にとっては、今回の和平はなんとしても妨害したいだろう。
現在、さらに加速しようとしている改革には、さらなる反発が生まれるはずだ。今回は、警告の意味合いが強いのだろうが、自分と西月国の姫である翠蓮の命が狙われかけた。この警告を無視して、軍縮と後宮の縮小を推し進めれば、まさに命がけとなる。
「余計なことはするな。お前は、ただ座っているだけの皇帝であればいいんだ」
そんな屈辱的なメッセージを受け取りながら、それに抵抗する意志だけは強まっていく。
「僭越ながら申し上げますと……」
大長秋は、にやりと笑いながら続ける。この男は、誠実な宦官で頭もキレる。何かいい案があるのだろう。
「なんだ?」
「翠蓮様でございます。今回の件を見ても、彼女が優秀なのは明らか。まさに、砂漠の女帝と呼ばれていた才女にございます。彼女をうまくこちらに引き入れることができれば、まさに鬼に金棒。政治のことも相談できる最良の妃様になられるでしょう」
「……ふざけているのか?」
しかし、こいつは真面目な顔で否定する。
「まさか。少なくとも、一番信用できるのは、彼女です。性格的にも、言動的にも、陛下に最も賛同してくれるはずですよ。彼女がここにきた理由は、聞いたじゃないですか」
こちらまで苦笑いしてしまう。
※
「だが、私はそなたを愛するつもりはない。そなたは、しょせん政治の道具だ。そちらをよく覚えておくことだな」
「それは、つまり、私に女としての利用価値はないということでしょうか」
「ああ、そうだ。少なくとも、皇室に元敵国の血を入れるのは危険だからな」
「陛下のお考えは、素晴らしいですわ。冷静に考えれば、当り前なのです。この身ひとつで、両国の恒久な平和が成立するならば、なんとお安いことでしょうか。私は政治の道具になりに来たのですから」
※
皇帝である自分にあそこまで言い返してくる女なんていなかった。いや、男ですらいないだろう。婉曲に非難するか、今回のように暗殺を狙ってくるか。まさか、ストレートにあそこまで噛みついてくるのであれば、逆に信用できるのかもしれないな。
「弟が生きてくれていれば……」
どこかに死んだあいつの面影もある。非常に頭がキレて、理屈っぽい。しかし、その理屈には優しさが必ず隠れている。あいつや翠蓮が見ていたのは、政治や後宮のような華々しい場所ではなく、民の生活だけを見ていた。
「私は誰とも結ばれるつもりはない。子供を作るつもりもだ。大長秋、最近、変に気を回し過ぎだぞ。あまり女を重用しすぎたら、武則天の故事もあるだろう。私はそんな賭けにでるつもりはないぞ」
武則天は、唐の高宗の皇后だったが、自ら一代の女帝となった怪物だ。門閥貴族の傍流から皇后にまで登り詰め、最後は自ら皇帝となり国を動かした。
「それは失礼しました。しかしながら、翠蓮様とはどこかでしっかりお話しください。今回の件もありますし、そもそも彼女にとっては、今回はこちら側の不手際で迷惑をかけた形となっております。責任者である皇帝陛下がきちんと説明するべきかと」
「……」
そう言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。
「では、会談の場を用意しておきます」
無言を事実上の了解と考えたのだろう。大長秋は淡々と進めていく。
少しだけため息をつき、会議を終わらせる。まだまだ、やらなければならないことだらけだ。そして、翠蓮に対して何を話せばいいのかという悩みまで生まれた。皇帝とはここまで大変な仕事か。
重いため息をつきながら、執務室に向かう。