第5話
「あ、ありがとう」
なんとか踏みとどまることができて、ケガもしなかった。しかし、とたんに恥ずかしくなる。こういう時に、一つのことにしか集中できないのは、私の悪い癖だ。
「砂漠の女帝と聞いていたから、どんなに冷酷な女かと思っていたが、意外だな。まぁいい。君と僕が関わるのはこれが最初で最後だ。適当に本はもっていくといいさ。だが、あまりこの時間には来てくれるなよ。僕の大事な休憩時間なのだから」
でも、相変わらずつれない反応をする彼に思わず、政治家の自分が出てしまった。
「いやよ」
「なら、僕がここに来る時間を変えるまでだ。あなたとなれ合うつもりはない」
「そう、なら私にも考えがあるわ」
「考え?」
「ええ、あなた言っていたわよね。歴史が好き過ぎて禁書まで読んでしまい、宦官に落とされてしまったって。じゃあ、あなたの根本的な欲は、歴史に対する知識欲。違う?」
「……」
無言は図星の証拠。これで交渉の余地があることがわかった。
「あなたなら、『集歴』って知ってるわよね」
「もちろんだ。君たち遊牧民族の歴史をイブハル=ハーンがまとめたものだ。しかし、完成は500年前。よって、いくつかの巻は失われているはず」
「正解。じゃあ、私が第2部の3巻から5巻を持っていると言ったら、あなたどうする?」
「まさか、あの巻はかつての戦災で保管されていた場所ごと焼失してしまったと」
「ええ、漢語版はそうよ。でもね、この本には私たちの言葉である西月語版もあるの。そちらは、我々、西月国族長が保管していて、現代の所有者は私」
兄はこういう文化財に興味がなかったので、ひそかに持ち出してしまった。西月国は、エリート層は漢語も話せるが、モンゴル文字を使う西月語は普段はそれを使う。
「読みたい」
「なら、私が漢語訳してあげるわ。もちろん、友達になってくれればだけどね」
ある意味、脅しに近いものだろう。
「わかった。なら、少しずつでもいいから、訳して、この時間に落ちあおう。僕も手伝えることは手伝う」
「よかった。これで、私も後宮で生活する楽しみができたわ」
「ただ、条件がある。あまり、二人で会っていることを噂されたくないから、僕がここにいることは内緒にしてくれ」
なるほど、たしかに宦官とはいえ、異性と密会しているようなうわさが流れたら、お互いの身に災いが及ぶかもしれない。納得。
「わかったわ」
これで、私は後宮に初めての友人ができた。少しずつ、自分の居場所が拡大されていくような高揚感に包まれながら、私は新しい友人を見つめるのだった。
※
―西月国(族長視点)―
「族長、確認したところ、オアシス都市に建造している庁舎の建設が遅くなっているようです」
部下の報告に思わず、イライラをぶつけてしまう。なんだ、さては妹の奴、さぼっていたな。
「責任者に伝えろ。これ以上、遅くなるのであれば、お主の首が身体から離れることになるぞとな」
「いえ、それがすでに族長あてに資材の要求などを出しているのに、届かないということですが……」
そう言われて、慌てて、書類の山を確認する。翠蓮から引き継いだ書類は、巨大な塔のようになっていた。どうしてだ、あの女はこれくらい日中に終わらせていたではないか。いくら族長の仕事と兼ね合いがあるからと言っても、これでは……
「おい、宰相。どうすればいい。お前が翠蓮は邪魔だというから追放したんだぞ。何か策はないか」
宰相は一瞬驚いたように、目を開いたが、このままでは自分が危ないとわかっているのだろう。すぐに、口を開いた。
「そうであれば、族長の事務仕事を補佐する人員を増やしましょう。また、今回の工事の遅延は主に、予算の少なさも原因かと」
「ならば、課税を増やすというのか?」
「ええ、通行税や関所を作ればいかがでしょうか。我が国は交通の要所であり、どうしても使わなくてはいけない人たちも多いですし。その利点を生かすのです。そもそも、オアシス都市建設は、そういう商人たちのためのものでもあるのです。ならば、利益を受けるものに負担してもらうのが当然でしょう」
会議の場でそれっぽく聞こえる理論が出てきたことで、拍手が起こる。
こうなったら結果を残さなくてはいけない。そうしなければ、この実力主義の遊牧民族の世界で、すぐに足を取られてしまう。
「ならば、早くそうしろ! もともと、商人隊への課税は、私が考えていたことだし、用意もできている」
そうだ、部下の功績は自分の功績にしなくてはいけない。そうでなければ、有能な妹を切って墓穴を掘った愚かな族長になってしまう。それだけは、それだけは認めることはできない。