「何だ……こりゃあ……」
初めて見る光景だった。てのひらが、自分の血でべったりと汚れているというのは。
信じられないという驚きと、とうとう焼きが回ったのかという落胆が男の脳裏を埋め尽くした。そして、それらの思いは霞む視界とともにぼんやりと白んで消えていった。
「なんだ、夢だったのか」
慌てて飛び起きた男は、自分の胸を見るなりそう言ってホッとため息をついた。――〈死神〉の異名を持つ名うての殺し屋が、あんなにあっさりと死ぬはずがないのだ。
夢の中では血を吐き出していた胸元の風穴は存在せず、シャツのしわすらひとつも無く綺麗そのものだ。男が安堵の息を漏らしながら胸を撫でていると、クスクスと笑う女の声が聞こえてきた。
顔を上げた男の目の前に、いつの間にやら女が立っていた。高慢な笑みを浮かべるその女は、豊満な褐色の体を金の豪奢な装飾で飾り立てていた。しかし、その女の存在を際立たせるものはエロティックな肢体でもなく、きらびやかなアクセサリーでもなく、髪だった。髪の色が何とも不思議なのだ。銀でもなく、白髪交じりというわけでもない。艶のある、綺麗な灰色。
不思議な魅力をまとうこの女に男が見惚れていると、女が小首を傾げて言った。
「ぬしの〈焼きが回った〉という自己評価は、正しいのかも知れぬのう」
「何だと……?」
「普通、このような場所に居ること自体が〈夢だ〉と思うだろうに。いくら〈生きている〉〈先ほどのあれは夢だった〉という思い込みが強いとはいえ……」
失笑する女に対して、男は怒りがこみ上げた。しかし、それもすぐに消し飛んだ。
「何だ、ここは……」
どこまでも続く白。そして、存在するものは自分と女だけ。――この異様な空間に、男は一抹の不安を覚えた。そしてすぐさま、男は悟った。
「俺はやはり死んだのか……。しかし、三途の河原とやらはもっと陰湿で暗い場所だと思っていたんだが」
「ぬしが望むのならば、今すぐにでも三途の河原に連れて行ってやっても良いぞ?」
「ここは死後の世界とやらではないのか」
男が不思議そうに眉根を寄せると、女が誇らしげに胸を張った。
「ぬしの〈死神〉としての腕は確かに素晴らしいものであった。このまま冥府へと送るのは口惜しい。だから、
「引き抜き?」
「そうじゃ。どうせこのまま冥府に行けば、悠久の時を業火に焼かれて過ごすことになる。それよりは、妾のために働いたほうが良いとは思わぬか? 何なら、無事に勤め上げた暁には、冥府行きを免れるよう口添えをしてやろう。さらに場合によっては、ぬしの望む未来をくれてやっても良い。妾も神族の端くれじゃ、そのくらい造作も無い」
「で? そんな偉い神さんが、俺なんかに何を頼もうっていうんだ」
男は腕を組むと、神妙な面持ちで女を見つめた。女はいかにも〈困っている〉と言いたげな表情を作ると、肩を竦めて溜め息をついた。
「妾の助力あって繁栄したということを忘れた阿呆とその一族に、妾は呪いをかけたのじゃ。その阿呆ときたら、許しを乞うどころか妾に楯突いた。だから妾は難攻不落のダンジョンを生成し、その最奥に
「それで〈俺の腕を買って〉ということは、つまり、冒険者が活動できないように暗躍しろということか」
「察しが良くて助かる。――殺し屋〈死神〉よ。ダンジョンの死神となり、冒険者達の活動を妨害してたもれ」
女がにこりと微笑むと、男は鼻を鳴らして皮肉めいた笑みを浮かべた。
「この落ちぶれた〈死神〉に、死神をやれと」
「そうじゃ。――さあ、選ぶが良い。妾に尽くすのか。それとも、呵責の炎にその身を投じるのか」
男はゆっくりと立ち上がると、女の瞳を覗き込んだ。そして、ふっと笑いながら視線を足元へと落とした。再び顔を上げた男の顔には、感謝と決意が滲んでいた。
「あんたのおかげで、俺の中の〈俺の最期〉は血みどろじゃあなくなった。あんな恥さらしな姿じゃなく、綺麗な体で今ここにいさせてくれた恩に、俺は報いたい。――いいぜ、あんたに忠義を誓ってやるよ」
女は満足気に頷くと、男の頬に両手を添えた。
「では、その〈名〉に相応しい死神となるが良い。ぬしの活躍を期待しておるぞ」
そう言うと、今まで瞳のなかった女の目に赤い瞳がスウと浮かんだ。男は、吸い込まれるようにその綺麗なルビー色に見入った。そしていつしか、男は女に唇を奪われていた。
男は驚いたが、きちんと応えるべく女の腰に腕を回そうとした。しかし、腕を回す前に女が離れた。そして、先ほどまで見下ろしていたはずの女の顔が、何故か必死に見上げないと見えない高さにあることに気付いて、男は不思議に思った。
女は握り拳で口元を隠すと、必死で笑いを噛み殺した。
「その〈名〉に相応しいって、異名じゃなくて、本名のほう……」
ふるふると震えていた女が、耐え切れずに弾けるように笑い転げた。男が呆気にとられていると、女は人差し指を立てた右腕をクルクルと回した。すると、男の目の前に鏡が現れた。そこに映っていたものは――
「何だこりゃああああああ!!」
自慢の長身は小さく縮み、厚い胸板はつるぺったんに。
シュッと引き締まった頬は、愛らしいぷにぷにほっぺに。
凛々しい黒い瞳は、くりっくりの大きな赤目に。
整髪油できっちりと整えられた黒の短髪は、ふわふわピンクのツインに。
かっちりスーツは、ふんわりスカートに。
そして、地獄の番犬のような野太い声は、天使のロリ声に……。
「ちょっと待て! 何だこれは!! 姿を変える必要はないだろう! 変えるにしても、何で幼女なんだ!」
男――もとい、幼女が絶叫するも、女は腹を抱えて屈み込み、ぷるぷると震えたまま顔を上げずにいた。
「では、よろしく頼むぞ、
絞り出すようにそう言うと、女はちらりと幼女を一瞥して、そして笑いで肩を震わせながら完全にしゃがみ込んだ。
「やめろ! 本名で呼ぶな!」
怒りで頬を真っ赤にした幼女に構うこと無く、女はそのままスウと姿を消した。
「待て! 行くな! これはさすがにおかしいだろう! 待て! 待ってくれ……!」
幼女の懇願も虚しく、白い空間は光に満たされ、それとともに幼女――死神ちゃんの意識も遠のいていった。
――――こうして、死神ちゃんの憂鬱な毎日が幕を開けたのDEATH。