なぜ彼が現れたのか。
こんな暗い路地裏をなぜ、彼は覗いたんだろうか。
いや、そんなことを気にしている場合じゃない。
ノエルの身体を何とか押そうとするがびくともしない。なんて力だ。
俺だって男だし、非力ではないのにアルファであるノエルに対抗できないなんて。
ノエルは冷笑を浮かべ、俺を見つめている。きっと、サーシャのことなど目に映っていないのだろう。
「あはは。ベータであるお前がアルファである俺に勝てるわけないだろう?」
そんな事言われても、諦めるわけにはいかない。俺だって自分の身を守りたいのだから。
「ノエルさん? 何をしているんですか」
サーシャの厳しい声が響く。
その声にやっと気が付いたらしいノエルは、ゆっくりと路地からこちらに入ってきたサーシャの方を見た。
彼は革の鎧を着て、マントを羽織っているようだった。騎士だったというからてっきり金属鎧を着ているのだと思っていたけれど違うのか。
でも鎧を着ている、ということは奈落から帰って来たところだろうか。それにしてはずいぶんと時間が遅いように思うけれど。
いや今はそんなことどうでもいい。
「あぁ、君か。邪魔しないでくれるかな?」
ニコニコと笑って言うノエルの声と顔が、とても怖かった。
なんでこんな男に俺は振り回されなくちゃいけないのか。
怒りがふつふつと俺の中で沸き上る。
だけどノエルの声に身体が震えてしまう。この声はアルファ特有の声なのだろうか。
人を威圧し、言うことを聞かせる響きを持つ声。この声をきくと何もできなくなってしまう。
「どう見ても、貴方が彼を襲っているように見えますけど」
まっすぐと、毅然とした声でサーシャは言い、こちらにゆっくりと歩み寄ってくる。
なんで彼は、この声を聞いても大丈夫なんだ?
この男には何か秘密があるのだろうか?
俄然興味が湧いてくるが今はそれどころではない。
「襲っているとは人聞きが悪い。彼は俺の『運命』なんだ。だから俺が彼に愛人になるよう望むのは当たり前だろう?」
「だからそれが迷惑だと……!」
「愛人? 運命?」
サーシャが顔をしかめ、いぶかしげに首を傾げる。
彼には理解できないだろうな、俺にも理解できないのだから。
アルファはこんな身勝手な生き物なのか。話がかみ合わな過ぎるだろう。
「いったい何を言っているんですか? 貴方はご結婚されているんですよね? そう聞いていますけど、それにたしか子供が生まれると。それにカミルさんは男、ですよね?」
その通りだ。それに俺はベータだから愛人にすらなれない。なのになぜ、この男は俺が『運命』であると確信しているんだ?
アルファの本能に刻まれているものなのだろうか。
そんなもの、理解したくもないし迷惑極まりない。そういう事はアルファとオメガの間だけでやっていてほしい。そう思うのに、身体がいうことをきかなくて自分の無力さに腹立たしさを感じた。
ノエルはサーシャを睨み付け、低い声で威嚇するように言った。
「邪魔をするな、と言っているんだが?」
「ですけど、明らかに嫌がっているカミルさんを放っておくことはできません」
ノエルの、怒りをはらんだ声に俺は身体が震えて動けなくなるというのに、サーシャはそんなの気にするそぶりもなくこちらに近づいてくる。
なんだんなだあいつは。いったい何者だ? アルファ、なのか?
アルファもオメガもわかっていないことだらけで、判別法が確立していないことが悔やまれる。
ノエルだって両親共に男性であるからアルファだとわかるが、そうではない場合もあるらしくどうしようもない。
ノエルはいぶかしげな顔になり、俺から手を離したかと思うとゆっくりとサーシャの方に近づいていった。
やっと解放されたものの、俺はあの声のせいで動くことができず、その場にへたり込んでしまう。
息が苦しくて、頭もまだくらくらしている。
俺はぼんやりとノエルの背中を見つめた。
「なぜお前は平気なんだ?」
サーシャに迫りながらノエルが声を荒げる。
「何が、ですか?」
「声だよ。俺の声を聞いてなぜお前は何ともないんだ?」
あぁやはり、あの声はわざと出しているのか。ということはアルファ特有の声なのは間違いないらしい。
「アルファのこの声が通じない、ということはお前、アルファなのか?」
「あるふぁ……? え?」
意味が分からないらしいサーシャは。首を傾げてノエルを見つめる。
あぁそうか。アルファやオメガというものの存在について研究が進んできたのはここ十年ほどだ。だからその存在について知らない者もいるだろう。
それを考えるとサーシャの反応はいたって普通なのだが、ノエルはそんなことに気が回らないようだった。
彼はサーシャの胸ぐらをつかみ、ノエルは声を荒げた。
「まさか俺の『運命』を奪うつもりか?!」
「ちょ……な、何を言って……」
「とぼけるな、お前はアルファなんだろう?」
怒りでサーシャの言葉の意味を考える余裕がないのだろう。
サーシャは腰のベルトにさしてあるナイフを出すと、それをサーシャにつきつけた。
このままだとまずい。サーシャが刺されてしまう。
そう思うのに、身体が全く動かない。
ナイフを突きつけられたサーシャは見るからに表情が変わる。あれは戦士の顔だ。
きっととっさの動き、だったのだろう。
サーシャはナイフを持つノエルの手首を掴んだかと思うと、ナイフを奪い取り、ノエルの身体を建物の壁に押し付けてその首にナイフを向けた。