俺は誰か通り掛からないかと通りの方へと視線を向ける。だけど誰かが通りすぎる気配は全くなかった。
そもそもここは町外れ。
もともと人通りは多くないし、辺りは工場などが多いため、この時間は帰宅してしまっているだろう。
家もあるにはあるが、夕暮れ時でもあるし皆家路を急ぎ路地を覗く者などいるはずなかった。
それにここは建物の隙間で暗く、覗き込んだとして気が付かれないかもしれない。
押さえつけられている間にも日が暮れていき、辺りはどんどん暗くなっている。
なんとか逃げ出さなくては。
口さえ塞がれていなければ魔法を発動させられるのに。
きっと、言葉を発しなければ魔法を使えないことを、ノエルは知っているから俺の口を塞いでいるのだろう。
まさかこのまま俺は、この男に好きにされるのか? そう思うと俺の身体が総毛だつ。
嫌だ、そんなの許せるわけがない。
俺はベータだ。その前に男だ。男に抱かれるのなんて、耐えられるわけがない。
俺の口を押えるノエルの手をつかみ無理やり外そうとするが、ノエルはびくともしない。なんて力なんだ、アルファの力の強さに俺はさらに恐怖を感じた。
でも、ここで負けてたまるか。
「もっと早く言うことを聞いていたらよかったのに。お前は本当に強情で、俺をことさらに煽るんだもの」
などと言い、ノエルは俺の口から手を外す。
いくら貴族が相手でも、聞けない願いがあるのは当たり前だろう。
「はぁっ……」
俺は大きく息を吸い、息切れさせつつ言った。
「煽ってなんて……そんなこと、するわけ……ないでしょう」
「あはは、その苦しげな顔も色っぽいなぁ、カミル。ずっとお前に触りたかったんだ。お前に出会った日からずっと、美しく気高い、誰も近づけないお前に恋焦がれてきたんだ。なのにお前はベータだった。でも俺はアルファでオメガと結ばれないといけない。子孫を残さなくちゃいけないんだ。それが俺の運命だからな。でも俺はもうその責務を果たした。あの子はいま妊娠中だ。もうしばらくすれば子供が生まれる。アルファとオメガの間に生まれるのは必ずアルファだ。だからもう、あの子だけを見ている必要もない。なのに好きな相手を愛人にして何が悪い?」
恍惚とした表情でそう語るノエルが、異質なものに見えた。
これがアルファなのか?
人の道理など通じない、これではまるでモンスターじゃないか。欲望のままに生きるモンスター。俺には理解できないし、治療方法も思いつかない。
これはアルファが抱える闇なのだろうか。
アルファは知力も運動能力も高いと言われているし、ただ唯一、オメガだけを愛し続けると聞いたのに。話が違うじゃないか。
聞いたことないぞ、こんなの。
アルファもオメガも、現状わかっていることが少ない。これは追跡調査して論文にまとめたいところだが、そんな余裕、俺にはない。
喋れるようになったとはいえ、この距離で炎や雷の魔法を使ったら俺にも被害が及ぶだろう。
この状況を脱する魔法、他に何かある?
駄目だ、頭の中が真っ白だ。声を出せれば魔法が使えるのに、この状況から逃げられる魔法が何も出てこない。息を吸うとノエルから香るあの匂いが俺の身体中に蔓延し、力を、思考を奪い去ろうとしていく。
何だこれは。いったい俺に何が起きている?
混乱していると、ノエルはひとり語りを続ける。
「あの日、お前と出会った日に俺は直感したんだ。知っているか? アルファには運命の相手っていうのがいるんだよ。魂で繋がっている存在が。俺にとってお前がそうだと感じたんだ。嬉しかったよ。魂が共鳴するあの感覚……忘れられない。なのに……なのになんでお前はベータなんだ?」
その声にどんどん怒りが込められていき、俺は目を見開いてノエルを見つめた。
ノエルの表情は怒っている、というよりもいら立ちを感じているように見える。
そんな不条理な怒りをぶつけられるいわれ、俺にはないのに。
「あ、アルファとオメガのあれこれに、俺を巻き込まないでください。俺は、ベータだ。オメガの身代わりになんて……」
なれるわけがない。
なのになぜ、ノエルの匂いを嗅いで今、俺は頭がもうろうとしてきているんだ?
なんなんだこの匂いは。この、甘く香る濃厚な匂いはさっきよりもずっと強く、俺の身体に匂いがまるで重い鎖のように纏わりついてくる。
息をするたびに匂いが俺の身体から少しずつ力を奪っていき、思わずノエルにもたれかかった。
「あぁ、抵抗するの諦めた? 最初からそうしたらよかったのに」
そう笑いながら言うノエルの声に何も言えず、俺は荒い息を繰り返した。
何だ、これは。俺の身体、どうかしたのか?
俺の医学知識の中にこの匂いの正体にあたるものは見つからない。
嫌だ、このままこの男の思い通りにことが運ぶなんて。そんなの許せるわけがない。
重い身体を何とか動かそうとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえた。
「……カミル、さん?」
あぁ、この声は。
一カ月ぶりに聞いた、低く響く男の声。
重い頭を何とかあげて通りの方を見ると、薄闇の中に立たずむ黒い人影をみとめた。
これは……日が沈もうとしているから黒いわけじゃない。
黒い髪をしているからだ。
俺はなんとか気力を振り絞り、ノエルの腕から逃げようとぐっと手に力を込めて彼の身体を押し戻そうとした。