この辺りは気候が穏やかで、一年を通して大きな気候の変化がない。
春先は雨が多いが、それを過ぎると晴れの日が多く過ごしやすい日々が続く。
サーシャが俺の診療所を訪れたのが四月の初めだった。それから一か月ほどが過ぎた五月の半ば。
相変わらずノエルは俺の診療所を訪れては口説いてくる。
まったく、伴侶が妊娠中であるというのになぜ俺を構うのか全く理解できない。
その日も午後の診察時間になる前だというのに、ノエルはやってきて今夜のディナーはどうかと誘ってきた。
「お断りいたします、ノエル様。貴方は貴族でしょう。あらぬ噂が立っては、貴方の名誉に傷がつきます」
そう言ってみたものの、彼はそんなことを気にする様子はなかった。
彼はニコニコと笑い言った。
「父も愛人がいたし、叔父にもいるんだよ。アルファとかオメガとかわかってきたのはここ十年ほどのことだけど、俺たちは本能で守らなくてはいけない存在があることを知っているんだ」
「それに俺は当てはまりませんので、どうかお帰りください」
そう冷たくあしらうと、診察室の扉が遠慮がちにそっと開き、看護師のアマンダがきょろきょろと視線を巡らせつつ言った。
「あの、先生。そろそろ診察のお時間なのですが、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だよ。ノエル様はおかえりになるから」
というかさっさと帰ってほしい。
ノエルは一瞬むっとしたような顔をしたけれど、すぐに張りつけたような笑顔を浮かべて俺の方を見る。
「また来るよ、カミル。君は俺のものだから」
そんな背筋が凍るような言葉を残し、彼は去って言った。
俺のものだって? 俺は誰のものでもないのになぜ彼は俺に執着するんだ。
守らなくてはならない存在だって? 俺はそんな弱い存在じゃない。
悔しさと、恐怖とがないまぜになった思いを抱え、俺はぎゅっと手を握って深くため息をついた。
「あの、大丈夫ですか、先生。お疲れでしたら私が今日、患者さんたちを診ますよ?」
心配げな声でアマンダが話しかけてくる。
アマンダも医術師の資格を持っている。だが彼女は自分で診療所を持つには経験不足であるため、ここれ助手をしていた。
だから彼女も患者を診ることができるが、さてどうしようか。
そこまで疲れているように見えるのだろうか。
だが仕事をしていた方が時間が経つのが早いしその間、彼の事を考えなくて済む。
だから俺は首を横に振り、答えた。
「あぁ、大丈夫だよ、ありがとう、アマンダ」
何とか笑顔を作りそう答えると、アマンダは余計不安げな顔になる。
「そうとは思えないですけど……ノエル様、しつこいですね。確か、伴侶の方は今、妊娠七カ月だと聞きましたけど、なぜあのような無礼を働くのでしょうか」
なぜなのか全く心当たりがない。もしかしたら彼には俺がオメガに見えるのかもしれない。
この国では複数の伴侶を迎えることは認められていない。愛人の存在もあまりいい顔はされないものだが、金持ちや貴族の中には愛人を囲う者がいることはある程度受け入れられているのも事実だった。
だが俺には到底受け入れられない考えだし、恋人がいるわけではないし、いいなずけもいないがノエルに囲われる気などさらさらなかった。
俺はアマンダの問に首を傾げ、
「何でだろうね。俺にもわからないよ」
と言い、息をついた。
「ご結婚される前からですよね。私が二十一歳で学校を卒業して二年ほどになりますけど、そのころからいらしてますよね」
アマンダの言う通り、ノエルが俺に言いよるようになったのは何年も前だ。
最初は冗談かと思っていた。なのに結婚してから激化しているように思う。
「そうだね」
「お気を付けてくださいね。アルファは私たちよりずっと力も能力も、執着心も強いですから。正直、逃げるのもひとつの手だと思います」
心配げな顔で言われ、俺は頷き、パン、と大きく手を叩いた。
「わかっているよ、アマンダ。さあ時間だから診察を始めようか」
そう言って微笑みかけると、アマンダは大きく頷いた。
午後の診察を終え、辺りは夕暮れ色に染まる。
アマンダとニコルは戸締りをして帰宅し、俺も近所の飲食店に夕飯を食べに行こうと外に出た。
奈落に行っていた冒険者たちはすでに帰ってきているだろう。
夜の奈落は強いモンスターが出ると言われ、危険が多くなるから、夜営をするような冒険者はごく一部だ。
サーシャはあれ以来姿を見せていないが、どうしているだろうか。
来ないのであれば無事、ということだろうか。
そう思いつつ俺は町中へと向かおうとしたときだった。
背後から口を押えられたかと思うと身体を抱きしめられそして、そのまま路地へと引きずり込まれてしまう。
声も出せず、暴れることもできない俺は甘い匂いその男からすることに気が付いた。
誰だ……この甘い、バニラのような匂いは。知っている。だけど知らない匂い。
「カミル」
興奮した様な低い男の声が耳元で響く。
この声は、ノエル。
「なあ、カミル。俺は何年お前に恋焦がれていると思う? 最初に会ったのはいつだっただろう。お前が父親の跡をつぐと父に挨拶に来ただろう。五年前だったかな。十九歳で医術師の学校を卒業したという天才だと、父は言っていたっけ。お前を見たとき、俺は驚いたよ。あぁ、これが俺の運命なんだと。美しいプラティナブロンドの髪、妖艶な薄い紫色の瞳。どこか物憂げな顔をした美しいお前をみて俺は一目ぼれしたのに……」
そして彼は、俺の身体を反転させ、壁に背中を押しつけてそして、怒りと悲しみに染まる瞳で俺を見つめる。
俺の口を押えたまま。
「なんでお前はベータなんだ?」
そんなこと言われてもどうしようもないだろう。
それを決めるのは俺ではないのに。
言いたくでも何も語れず俺はノエルのひとりごとを聞かされる羽目になる。
「俺は絶望したよ。お前がベータだなんて。そして俺は、父に言われるままオメガと結婚したわけだ。確かにオメガは魅力的だし、発情したあの子を見て俺は我を忘れて抱き潰した。でも」
ノエルの手が、俺が着ているシャツの隙間に入ってきて直に素肌へと触れた。
気持ち悪い。早く逃げたいのに全然身体が動かない。
怖い。どうしようもない恐怖が俺の心を支配している。
そしてなんて力だ。壁に押さえつけられた俺の身体はピクリ、とも動かない。
ノエルは俺の肌を撫でながらうっとりとした顔で言葉を続けた。
「頭の中にはいつもお前がいるんだよ、カミル。いったいお前はどんな声で啼くんだろう。君の裸体はどんなに素晴らしいだろうって。どれだけ我慢してきたか。あらぬ噂? 俺の名誉? そんなものより俺は、お前を手に入れることの方がずっと重要なんだよ、カミル」
そしてノエルは俺の乳首を指先で弾いた。
気持ち悪い。そんなことされても気持ちよさなんてみじんもない。なのにノエルは恍惚とした表情で俺の肌を撫でまわした。