小国が大国に飲み込まれ、侵略と併合を繰り返して長い時が流れた。
四年ほど前に大国であるソリトス皇国が小国のリデューへと侵攻。その数か月後に終戦を迎えて以降、大きな戦争の話は聞かなくなった。
ここは、マルフェス国のブリューエ地方の大きな町の外れ。
カミル=スピラ。それが俺を縛る呪いだった。
今年で二十五歳になるというのに結婚もせず、町の人たちを相手に小さな診療所を開いて暮らしている医術師であり、魔法使いだ。
表面上、大陸は平和だった。この国には魔王がいたとされる奈落への入り口があり、そこに眠る財宝を目当てに集まる冒険者がいる為賑わっている。
朝、目が覚めて顔を洗い鏡を見れば、胸元まで伸びた白金の髪に、うす紫色の眠たげな眼をした男の顔が映る。
この顔のお陰で俺は男に言い寄られることが多かった。曰く男とも女ともつかない顔が、美術品のごとく美しく見えるらしい。
そんなことを言われても俺には意味が分からないし、そもそも男に興味はない。だからと言って女性との関係ももってはいないが。
最近、伯爵家の息子に言い寄られていて困っている。あの男は俺を愛人にしたいらしい。何度も断っているというのに、金持ちが考えることは本当に理解に苦しむ。
まったく迷惑な話だ。
そもそもあの男はすでに伴侶がいるはずだ。俺のような普通の男……ベータなど相手にしていないで、愛するオメガだけを相手にしていたらいいのに。
俺は深いため息をつき、鏡から離れて朝食の準備を始めた。
その「性」の存在が明るみになったのはここ十年ほどの話だった。
アルファ、ベータ、オメガ。男と女以外に現れた、第二の「性」だ。
アルファは非常に数が少なく、突出した才能を持つ者が多いという。勇者もアルファであったという伝説があるほどだ。
ベータは何の特徴もない普通の人間。
オメガは唯一、アルファを産むことができる存在。厄介なのは四か月に一度訪れる発情期の存在と、発情期にしか排卵がなく、妊娠できない、ということだろう。
アルファの存在はまれだ。
俺が医学を学んだ時は確か一万人にひとり、という話だったと思う。オメガも同じくらいの確率だったと思う。
だけど、自覚のない者も多く検査の方法も確立されていないため、実際はもう少し多いだろう、とも言われている。
アルファは男にしか存在せず、オメガは男にも女にも存在する、らしい。
まだまだこの「性」についてはわからないことが多すぎる。
どこの国も第二の性について研究をすすめているというから、いずれ詳しいことがわかるだろう。今の俺にはあまり関係のない話だが。
俺は朝食を済ませて、服を着替えて自宅と続きになっている診療所へと向かう。
朝の空気はひんやりとしているが、昼にもなれば気温も上がり過ごしやすくなるだろう。
海に面し、山に囲まれたこの町は夏は海風で気温があまり上がらず、冬には時折雪が降る程度だ。
南国ほど暑くもなく、北国ほど雪も降らない過ごしやすい地域だった。
だから俺は一年の大半を長袖で過ごしていた。
診療所へと入ると、まだ診療時間にもなっていない、というのに入口前には人々が並んでいるようだった。
この診療所は毎日まあまあ繁盛している。
奈落に挑戦する冒険者が多いため、怪我したものが運び込まれたりするからだ。おかげで従業員を雇うだけの余裕はある。
いつものように早めに診療所を開け、最初の患者が入ってくる。
男の戦士で、奈落でモンスターと対峙した際腕を深く斬られたらしい。
傷痕は洗って包帯を巻いたそうだが痛みがひどく、朝イチで診療所に来たそうだ。
包帯の下の傷口を見ると、深く肉がえぐられていた。これくらいなら回復魔法である程度ふさげるだろう。患者は戦士だ。体力が有り余っているだろうし。
「アマンダさん、彼の腕を押さえていてもらっていいですか?」
「わかりました」
笑顔で頷いた助手のアマンダは、患者の腕をがしり、と掴んで固定する。
俺はそこに手をかざし、呪文を唱えた。
「いっ!」
案の定、患者は悲鳴を上げる。
回復魔法は本人の治癒能力を高め、回復を早めるものだ。急速に細胞が再生しようとする際に痛みが出る場合がある。
だから押さえていないと患者は動いたり、時には暴れ出すこともあるから、怪我の大きさによっては助手の手が必要だった。
じっとしていろ、と言っても耐えられない痛みだろう。戦士の顔には苦悶の表情が浮かび、額には汗がにじんでいる。
その苦しみと比例するかのように傷口は徐々に塞がり、やがて、完全に血が止まった。
そこで俺は手を離し、アマンダに声をかける。
「そうしたら薬を塗って包帯を巻いてあげてください」
「はい、わかりました。じゃあ、こちらにお願いします」
「え、あ、あ、ありがとうございます」
抉れていた肉が盛り上がり、傷が塞がり始めたのに驚いたのだろう。
戦士はぽかん、とした顔で礼を言うとアマンダに連れられて診療室を後にした。
回復魔法は医術師しか使えない。そして、医術師になるには素質が必要なため、なれる者は限らていた。
だからどこかのおとぎ話のように回復薬が冒険者に同行する、ということはほとんどなかった。
十二時を過ぎ、午前の診療が終わろうとしたときだった。
「あのー、先生、診察ではなく話を聞きたい、という方がいらしているんですが……」
困った様子でそう言ってきたのは、受付をしてくれている青年、ニルスだった。
また伯爵の息子が来たのかと思ったが、どうやら違うようだ。
「もう診察はないのだろう?」
そう尋ねるとニルスは頷く。
「はい。あの、治癒魔法について聞きたいとおっしゃっているんですが……」
治癒魔法、という言葉に俺の心臓が大きく音をたてた。背中に冷たい汗が流れていくのを感じ、俺は思わず目を見開く。
それはおとぎ話。
俺が使う回復魔法は本人の治癒能力を高めるものなので、治せる怪我や病気が限られている。だが治癒魔法はどんな怪我も病気も治せるというものだ。
けれどそれは失われた秘術と呼ばれていて、今は使えるものがいないとされている。
戦乱の時、たくさんの人がこの町にその秘術を求めてやってきた。けれど誰もがその魔法はすでに失われ使える者はいないと知り、肩を落として帰っていった。
今は戦乱、とは言えないしなぜ今さらそんな魔法を探し求める?
俺の中で警戒音が鳴るが、まず顔を合わせて相手の目的を知らないといけないだろう。
俺はなるべく平静を装い、
「通していいよ、ニルス」
と言って、笑いかけた。