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私の彼女は、もう知らない人。
ことりいしの
文芸・その他純文学
2024年11月26日
公開日
3,891文字
完結
私の前からいなくなったはずの彼女から、一通の手紙が届いた。

それは彼女がもう、私の知っている彼女ではなくなったことを知らせるものだった。

私は想う。
――私は、彼女の幻影から抜け出さなくちゃいけない。

第1話

 マンションのエントランスに設置されたポストを覗く。夏のバカンスに乗じて一週間近く確認をしていなかったから、郵便物が溜まっていた。


 近くにできたジムの勧誘レターに、マンションの売却を検討しませんかという不躾なチラシ。原材料価格高騰により値段を見直したという謝罪文付きの少し値上がりした宅配ピザのメニュー。一度だけ買い物をしたネットショップのダイレクトメール。よくこんなにいろんな郵便物の種類があるものだ。一枚一枚確認してごみ箱に入れるのも面倒だなと考えていると、郵便物の地層の間に、オフホワイトの封筒があることに気付く。


 それは箔が押され、窓から入ってくる夕陽の光を、きらきらと反射させていた。ところどころには花が散りばめられていて、品がありながらも、華やかな印象がある。見るからに、企業からのダイレクトメールの類ではない。個人が書いた手紙のようだった。メールやLINEが主流の時代に珍しい。表書きには、「三春こころ様」とある。

 間違いない。

 私の名前だ。

 その文字は、はねやはらいを無視して、すべての線がとめて書かれていて、一瞬、自分の名前に見えなかった。でもその筆致に、かつて同棲していた恋人の影を思い出す。もしかして、と裏返すと、「河内穂波」と書かれていた。見覚えのない苗字だ。彼女は、笹川だった。笹川穂波という名前だった。


 別人か、と思いかけて、いや、と首を振る。


 彼女は、私と別れて、結婚したじゃないか。普通、結婚したら女性は夫の家に入って、苗字を変える。笹川穂波は私の知らないうちに、河内穂波になったんだ。

 胸がザワザワするのを無理やり押さえつけるように、びりびりびりとわざと音を立てて封筒を開ける。中には便箋が一枚と、写真が入っていた。しわしわの赤ちゃんと、その子を抱いている大人の腕が映っている。

 その腕は、穂波だった。間違いない。

 だって、右腕の肘の内側に、ほくろがみっつ並んでいるんだから。オリオン座の真ん中部分のように、点がみっつ並んでいるということは、穂波が自分から教えてくれたことだった。


「もし私がこの先、スマホも身分証明書も何も持たないで死体になったらさ」

「縁起でもないこと言わないでよ」

「いいから聞いて。……もし、そういう状況になったら、これを目印にしてよ」


 そう言って、穂波は私に右腕をずいと見せびらかす。


「腕?」

「腕だけど、それだけじゃない。ほらよくみて。私って、肘の内側にほくろがみっつあるの。オリオン座の真ん中部分みたいなやつが」

「あー、ほんとうだ」

「ね? だから、これを目印にして。私がいなくなったら、これを目印に死体を探してね」

「いや、だからなんで死ぬ前提なの」

「だって、こころと別れるときは死ぬときだろうからさ」


 あのときの私たちはまだ若くて、青くて、愚かだったから、好きな人とはいつまでも一緒にいられるものだと疑っていなかった。信じて疑いもしなかった。

 大学のインカレで開かれた合コンで出逢って、それからなんとなく付き合って、友だちとも恋人ともどっちともいえないような関係になって、それで穂波の通っていた女子大の卒業式の日に身体を重ねた。相性はぴったりだった。就職先の土地もまるで似通っていたから、私たちは周りには「ルームシェアするんだ」と言って、ふたりで住み始めた。それを変だと糾弾されることはなかったし、馬鹿みたいと責められることもなかった。楽しそうで良いね、と言われることの方が多かったと思う。

 私たちのお別れが来るとしたら、どちらかが死ぬときだろうと信じていた。周りのカップルが浮気だ、倦怠期だと言って別れを繰り返す中でも、私たちは素面のまま「好きだよ」とか「愛してるよ」という言葉を歌のように口にした。

「一生、一緒にいようね」

「別れるのは、どっちかが死ぬときだけだからね」

「だめだめ。死ぬときだって、いっせーのーせで、手を繋いで死ぬんだから」

 そう言って、お酒を飲みながら馬鹿笑いした日もあった。

 でも実際に訪れたのは、死とは真逆の出来事だった。


 ある冬の朝、あまりの寒さに目を覚ますと、ベッドの隣に穂波の姿がなかった。冬だからというわけではなくて、妙に寒かった。リビングにも誰もいなくて、部屋ががらんとしていた。白湯を飲んで、昨日の夜と何が違うんだろうと目を凝らして部屋を見渡すと、失くなっているものがあることに気づく。


 おそろいのマグカップの片方、双子コーデと言って買った洋服の一セット、婚約指輪の代わりに買ったピンキーリング。


 穂波の持ち物が、ことごとく失くなっていた。


 慌てて彼女のスマホに電話する。繋がらない。LINEをする。既読にならない。何があったんだろう。事件か、事故か、それとも失踪?

 とりあえず探しに行かなきゃと玄関に向かうと、目立つところにオフホワイトの封筒が置かれていた。そこに何の絵柄が描かれていたのかはもう憶えていない。ただ、そこに書かれた文章は、一言一句、思い出すことができる。


「子どもができた。ごめん。」


 ひどく端的な内容だった。

 裏切られたとか、騙されたとか、そういうことを思うより、「それじゃあ、私じゃだめだね」という諦念が先にきた。


 いろんな理由で子どもを作ることができないカップルが、この世界にはたくさんいる。私たちも、そのうちのひと組だった。いつかの日、「子どもは無理だね」と不意に穂波が言った。


「でもそれなら養子縁組なんて手もあるよ」


「えー、でも私はこどもに、こころって名前つけたいんだけど。名前つけるなら赤ちゃんだよね。新生児を養子に貰うのは無理じゃない?」


「どうだろう。それはわかんないや」


 私はただの世間話のひとつだと思っていたけど、彼女からしたら違ったのかもしれない。彼女は、子どもが欲しかったのかもしれない。そういえば、歳の離れた妹をすごく可愛がっていた。誕生日にもクリスマスにも山のようにプレゼントやケーキを贈るから、よく両親に怒られていた。


 穂波は、子どもが好きだった。それなら子どもが欲しいと思うのも無理はない。


 そうだとしたら、私から離れていくのは自然の摂理のようなものだ。そう納得してから、私は彼女に会っていない。


 電話番号は着拒にして消して、LINEはブロックした。ついでにInstagramもブロックした。そういえば、なんで手紙なんだろうと疑問に思っていたが、穂波からしたら、私との連絡手段がそれしかなかったんだろう。でも穂波からの連絡が欲しくなかったから、連絡を取れないようにしたわけではない。はたまた失恋したからという理由でもない。ただ、そうしたら未練がましく私が彼女に連絡することはなくなるから、子どもを生む穂波のためになるんじゃないかと思ったからだった。


 恋は盲目。あばたもえくぼ。恋に夢中になるという意味の言葉は世の中にごまんとあるが、私はそのすべてに当てはまる。別れれば恋の魔法は解けると言うが、そんなことはなさそうだ。私はいまでも、ずっと、穂波が好きだから。うっかり、連絡してしまいそうだった。だから、絶った。


 写真に映った腕さえ、かわいいと思う。写真を頬擦りしようとすると、「あの……」と後ろから男性に声をかけられる。そういえばここはエントランスだった。あまりの恥ずかしさに、小走りで部屋へと帰る。


 ガチャ、ときっちり鍵までかけたところで、ほっと息をついた。鍵をキースタンドにかけて、靴を脱いで、手を洗って、持って帰ってきてしまった大量のダイレクトメールを捨てて、思いつくことを全て片付けてから、穂波に向き直る。


 綺麗な封筒から、便箋を取り出した。封筒とおそろいの便箋には、やはり箔押しがしてあって、ところどころに花が散っていた。封筒を見たときから思っていたことだが、このレターセットはファンシーで、穂波の趣味だったかと訊かれると首を傾げたくなる。穂波は確かにかわいいものも綺麗なものも好きだが、花よりも鳥や空や天体が好きだった。いや、でもそれは私が知っている範囲の穂波に過ぎない。笹川穂波のときのことだ。河内穂波は違うのかもしれない。罫線の上には、とめしかない、穂波特有の文字が踊っている。その文字だけは、笹川穂波でも河内穂波でも、穂波は穂波であって、変わらないと主張してくれている気がした。


 便箋に書かれた文字に全神経を集中させる。


「先日、子どもが生まれました。本当はこんな報告するのって、デリカシーに欠けるのかもしれないけど、どうしてもこころには言っておきたくて、旦那にレターセットを買ってきてもらって病室で書いてます。子どもの名前は、まだ決めてないけど、男の子なのでこころと名づけるのは無理そうです」


 書かれていたのは、それだけだった。


 ほかには何も書かれていなかった。


 少し残念に思う自分がどこかにいることに気づいて、私は穂波から「まだ好きだよ」とか「それでもずっと愛してるから」とか、そういう言葉を貰いたかったのかもしれないと思い至った。


 なんて浅ましいんだろう。穂波はもう私の知る穂波じゃないのに。あの子は、笹川穂波から河内穂波になった。彼女は私の恋人じゃなくて、河内という家の奥さんで、あの写真に映った子どものお母さんだ。


 私もそろそろ、笹川穂波の恋人という幻影から抜け出さないといけない。


 立ち上がり、あの冬の日と同じく、白湯を飲む。舌に伝わる熱をいなしながら飲むと、身体が熱くなってくる。手足や足先にまで熱が行き渡り、そして目の奥がひどく熱くなっていることに気づいた。その熱は、唇を噛んで堪えようとしても、堪えられそうになかった。


 味なんてほとんどないはずの白湯が、なぜか、少ししょっぱかった。河内穂波からの手紙の味かもしれない、と思った。




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