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記者・仁野実春の章〖第0話〗はじまり

 見下ろした景色が、赤に燃えていた。

 ハロウィンが終わると、世間はせっせと次のイベントであるクリスマスへとモードを切り替える。毎年そうであるように、今年も世間はクリスマスへと一直線になった。世界は、チカチカとしたイルミネーションに彩られている。

 仁野実春じんのみはるが勤めるオフィスビルの入口付近も同様に、チカチカと光る電飾がたくさんつけられていた。このオフィスビルはオーナーがその年の気分で、電飾の色を決めていると聞いたことがある。確か、一昨年はピンクで、去年は緑色だった。やっとコロナ禍を抜け――正直、いつからいつまでがコロナ禍なのかはわからないけど――、元の日常が戻ってきた2024年の電飾の色は、赤に決まったようだ。

 午後五時をまわると、一斉にイルミネーションの電飾がライトアップされることになっている。さっきちょうど五時をまわったからだろう。眼下の景色は、真っ赤に染まっていた。

 ふと向こう側に伸びていく道路が、青色の電飾に染まっているのが見える。向こうは――と地図を頭に思い浮かべて、渋谷駅の方向であることに気づく。渋谷はこの時期、代々木公園が青の洞窟をイメージさせたイルミネーションになるとかで、青色一色のイルミネーションになる。青も綺麗だなと、席から立ち上がったところで、


「ねえ、仁野ちゃん」


 上司の河蝉征義かわせみまさよしに呼び止められる。次いで、「今、忙しい?」と言われて、首を振った。

 忙しくは、ない。

 すすめていた仕事に煮詰まってしまったから、気晴らしに、シュレッダーの掃除でもしようかと思ったところだった。ちなみにだが、仕事はある。やらなくてはいけない仕事は割と多くある。

 でも、今やらなくてはいけない急務はなかった。


「それなら良かった。次のGenyuゲンユウの記事をきみに書いてほしくてさ」

「私に、ですか?」

「うん。そう。そこそこの取材もしなくちゃいけないけど、頼めるかな?」

 そう問われ、実春はひとつ慎重に頷いた。



 実春が勤めているのは、弦悠社。またの名を弦悠出版社。

 表参道駅からほど近い、オフィスビルのワンフロアに本社を置く出版社である。新卒で就職したばかりのとき、勤務先について家族や友人に伝えると、「表参道ってことは、ファッション誌とか出したりするの?」と言われたが、まったく違う。

 弦悠社は、週刊誌や、都市伝説やらホラーやらを扱ったニッチなムック本を多数出版する会社だ。

 とはいっても、それは過去の話。あるいは、一部の話。

 そもそも今は、出版不況と言われている時代。

 ネットに覇権を奪われている時代。

 雑誌はなかなか売れなくなりつつある。週刊誌はデジタル配信するようになったものの、それだけでは読者を確保しきれない。というわけで、生存戦略を練った弦悠社は、ネット事業を立ち上げた。それが、実春の所属する部署である。

 新卒四年目、この四月で二十六歳になった実春が配属されているのは、雑誌第三編集部。ネットコラムを掲載するサイト「Genyu」を運営する部署である。運営といえば聞こえは良いが、その実、部署に所属する社員たちが掲載するコラムを執筆するという仕事を請け負っている。

 本来、ネットコラムを運営するとなれば、ユーザからコラムを募集して、その文章を校正して、ネットにアップするという一連の流れを行うか、あるいはウェブライターに執筆依頼をするというのが、通常である。だが、弦悠社はそうしなかった。どうして、そうなったかと言えば、理由は簡単だ。

 金がない。

 これに尽きる。

 ネット事業を立ち上げ、サーバー費用を払っているは良いが、ウェブライターに払う金が無い。書いてくれたユーザに謝礼を払う余裕もない。じゃあ、社員にコラムを書かせよう、となったわけである。もとより弦悠社の社員の大部分は、週刊誌の記者になりたいと一瞬でも思った人間である。文章を書いたり、校正したりするのは、人よりも得意で、取材のノウハウもある程度は持っている。すでに給料を支払っている社員に――しかも適性のある社員がゴロゴロいるのだから――、仕事をさせようとするのは、会社としてはベストな判断だった言える。

 というわけで、実春も例にもれず「最新美容グッズ5選」や「必見!最強パワースポット」など、どこかで読んだことがあるようなありきたりな記事を量産してきた。これは他の社員も同様で、「誕生日に20代彼女に贈るプレゼント10選」や「親子喧嘩の原因はこれ!」、「夏休みに行きたい!旅行先15選~日本編~」などやっぱりどこかで見たことのあるコラムが、「Genyu」には大量に載っている。

 どこにでもあるような記事ばかりが載っているだけにもかかわらず、「Genyu」がサービス終了せずに続いているのは、定期的にバズる話題を提供しているためである。つまり定期的にビュー数が跳ね上がる。広告収入が高くなる。サーバー代が支払える。一応の黒字が出る。もう少し、サービスを続けてみようとなる、を繰り返しているのだ。


 そしてだいたいの場合、「ビュー数が多い記事のネタ」を探してくるのは、実春直属の上司である河蝉だった。とはいっても、彼は部長という肩書きを持っているため、取材にも行かないし、記事を書くこともない。あくまで部内の成績を維持するための着火剤として、席に座っている。

 だが彼は、非常に鋭い嗅覚を持っている。それは記者として最高級の「鼻」だ。

 それは社内でもかなり有名な話らしい。有名だからこそ、新規立ち上げ事業の部長に配置されたのだろう。実際、彼がいるから、このぎりぎりの雑誌第三編集部は成り立っていると言っても過言ではない。

 その河蝉に話しかけられた――ということは、次の「ビュー数の多い記事を書くように」と命じられることに他ならない。部内の視線が集まる。


「次回の更新時に載せるきみの記事だけどさ、この事件のこと、調べてみない?」


 ちょっとそこの自販機で缶コーヒー買ってきてくれない、くらいの気軽なノリで河蝉から渡されたのは、「K市マンション女性殺害事件」と書かれた資料のファイルだった。A4のリングファイルにいれられた資料は、存外、薄い。

 どんな事件だろうと資料を覗いて、はっと思い出す。記憶にの端に、ちらちらと雪が舞った。


「え、これって……確か」

「まあ、仁野ちゃんが雑誌編集部に配属される前に起きた事件だけどね。ちょっとばかし世間でも話題になったから、概要くらいは知ってるでしょ。まあ……世間はすぐに忘れちゃったけどね」


 そう言われて、まだペーペーの実春は小さく頷いた。


「知ってるとはいっても、その……犯人として逮捕されたのが、被害者の息子だった、ということくらいですが」

「それだけ知ってれば問題ないよ」


 河蝉が笑う。そして、彼は笑顔を崩さずに言った。




「僕がネタを提供する子たちにはみんな言ってることだから、仁野ちゃんにも一応言っておくね。――記事にするかどうかは、きみの判断に任せるから」

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