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名前のないその感情に愛を込めて
名前のないその感情に愛を込めて
にわ冬莉
文芸・その他純文学
2024年11月26日
公開日
3.5万字
完結済
幼い頃の記憶。 古びた鳥居と、小さな男の子。 その山で出会ったヒトは、ヒトならざる者だった。

第1話 あてのない約束

 あの夏を、今でも覚えている――。


 風に揺れる葉と踊る木漏れ日。セミの鳴き声につられて迷い込んだ山道。

 山間の開けた場所に突如現れた古びた鳥居と、そこに貼られた半分掠れて見えなくなっているお札。

 切れかかったしめ縄は垂れさがったままゆらゆらと宙を揺蕩い、辺りを不思議な空気が包み込んでいた。

 親から、山に入ると悪い天狗に連れ去られてしまうぞ! と脅されていたことを思い出す。


「ここが、天狗のおうち……?」

 吉宮よしみやあずさは、その寂れた神社の入り口に立ち、呟いた。

「天狗なんかいないよ」

 急に声を掛けられ、ひっ、と小さく声を上げ振り向く。

 しかしそこに立っていたのは天狗などではなく、同じくらいの年の、男の子だった。


「……天狗はいないの?」

 恐る恐る訊ねると、着物姿の男の子はにっこり笑って、

「天狗はね、もっとずっと、山の上に住んでいるから」

 と優しく教えてくれた。

 あずさはその男の子の笑顔がとても優しく感じられ、胸を撫で下ろす。

「あなたも天狗じゃないのね。でも、着物なんか着てるから天狗が化けてるのかと思っちゃった」

「僕が? まさか!」

 とんでもない、といった風に手をばたつかせる。


「私、吉宮よしみやあずさ。あなた誰? この辺の子?」

 山の麓には、母方の実家がある。毎年夏にはこの場所に来ていたが、この寂れた神社も、男の子も、あずさの記憶の中には、なかった。

「僕の名前は雪光ゆきみつ。……ねぇ、ここが禁足地だって知ってるの?」

「きんそくち?」

 初めて聞く言葉に、あずさが首を傾げる。八歳のあずさにとっては、なんだか大人の言葉みたいに聞こえる響きだ。


「ここは人間が足を踏み入れちゃいけない場所だ。早くお帰り」

 そんなことを言う雪光だって子供じゃないか、と、あずさは口をへの字に曲げる。

「雪光君だってここにいるじゃない」

 腰に手を当て抗議すると、雪光は困った顔で小さく溜息をついた。

「僕はいいんだ。いい、というか、仕方ないんだ。あずさは駄目なんだよ。だから、」

 名前を呼び捨てにされ、なんだか急に照れてしまう。母親や祖父にしか呼び捨てなんかされたことがないのだ。こんなに年の近い、しかも男の子に名前呼び。


「なっ、なんで私は駄目ではいいのよっ」

 動揺しながらも呼び捨てで返す。しかし、雪光の方は呼び捨てられても全く動じる様子はなく、淡々とした様子で、

「僕は……帰る場所がないから」

 と言うのだった。

「え? 迷子なのっ?」

「そういうわけじゃ……いや、もしかしたらそうなのかもしれない」

 目を伏せる雪光は、なんだかとても儚く、悲しそうに見えた。


「じゃあさっ」

 あずさはひときわ大きな声を上げると、雪光の手を握る。

「私がお友達になってあげる! おうちも、一緒に探してあげるよ!」

 あずさとしては、事件を解決する探偵にでもなったかのような気持ちで言ったのだ。しかし雪光はあずさの言葉を聞き、ひどく落ち込んだように顔を曇らせる。


「ごめんね、あずさ。僕はあずさと友達にはなれないし、探してもらっても家は見つからない。だからもう、早く帰って」

 くるりと背を向ける。

「な、なんでそんなこと言うのっ?」

 せっかくお友達になると宣言したのに、それを否定されたあずさは腹が立つより先に悲しくなってしまった。人には親切にしなさい、誰とでも仲良くしなさい、と言われて育ってきたのだ。


「僕、もう行かなきゃ。あずさ、ここに来たことは大人には内緒だよ?」

 背を向けたまま言う雪光に、あずさは、

「また会える? ここに来たらまた、」

 友達になることを拒否されたのに、何故か、どうしても突き放すことが出来なかった。


「……いつか、もしかしたら」

 小さな声でそう言うと、雪光は鳥居の向こう側へと走って行ってしまった。ザッザッという草を踏む音と、セミの鳴き声。絣の着物が遠ざかってゆく。生ぬるい、風。不確定な指切りのない約束……。


 そしてそれきり、その夏も、次の夏も、その次の夏も、あずさと雪光が出会うことはなかったのだ──。


◇◇◇


 都会の朝は忙しい。

 起き抜けにシャワーを浴び、ヨーグルトを掻っ込むと着替えと化粧。今日のスケジュール確認をし、走るようにマンションを飛び出す。


 新学期が始まったばかりのこの季節は、電車の中の学生もいつもより多く感じる。初々しい、制服に着られているかのような小さな子たちが緊張と期待に胸膨らませ、電車に揺られている。あんな時代もあったかな、などと思いを馳せるには、まだ若いあずさではあるが、二十六を迎え、親からの面倒なお願い事も声高になってきている。


『お見合いの話があるの』


 いよいよ来たか、という感じだ。

 母方の実家は、小さな商社の創業者の家系だ。小さいとはいえ、グループ会社をいくつか持っているので、あずさの母はそれなりにお嬢様である。そして一人娘。にも拘らず、あずさの父は病気で既に他界してしまっている。今はその会社を祖父と、あずさの母で経営しているわけだが、

「私は早く引退したいの。あずさが結婚して、旦那さんになる人が一刻も早く会社に入ってくれれば助かるわ」

 という図式だ。


 結婚相手に関しては引く手あまたというか、会社がいくつもついてくるとあって、取引先の重役の息子や、会社経営者の次男坊など、候補はいくらでもいるらしい。が、母のお眼鏡にかなう男性がなかなかいないようで、話の数ほど残りはしないという現状だった。しかしここに来てどうやら母が認める相手が見つかってしまったようで、見合いをしろとしつこく言われているのだった。


「おはようございます」

 会社の前で声を掛けてきたのは一つ後輩の後藤正真。爽やかで穏やかな人柄は社内でも人気となっており、彼を狙っている女性社員は大勢いると聞いたことがある。しかし、そんな彼にはどうやら心に決めた人がいるようだ。

「おはよう。あ、後藤君、今日の会議の資料だけど、」

「準備は終わってます。あとで少し、チェックしてほしい箇所がありますけど」

「うん、わかった。ありがとう」


 あずさは親の反対を押し切って今の会社に入った。母親は自分の会社に入れたがったのだが、親が社長をしている会社になど、どうしても入る気になれなかったのだ。結局は祖父の知り合いの会社に入ったわけだが、それは後で知ったこと。就活は自分で勝手にやっていたので、採用に贔屓や下心はなかったはず。と、信じている。


 デスクの上に置かれたお菓子に目を遣る。可愛い付箋には『伊豆のお土産です』と、ハートマーク付きで書かれていた。

「里美ちゃんか」

 週末、旅行だと言っていた後輩からのお土産だ。


 充実した毎日だった。だから母からのお願いは、なるべく聞きたくはないのだ。今時、家の事情で政略結婚など流行らない。会社の跡取りなど、勤めてくれている社員の中から選べばそれでいいじゃないかとすら思っていた。


「あ、先輩、おはようございます!」

 空になったお菓子の箱を持った奥田里美が声をかける。部署内に配り終えたのだろう。

「あ、里美ちゃん、お土産ありがとう」

「いえいえ」

「彼氏と、だっけ?」

「友人ですぅ」

「ふふ、そうでした」


 奥田里美は、小さくて可愛らしくて、男性社員からも人気だ。なにを隠そう、後藤正真も里美狙いであることを、あずさは知っている。だが里美自身はあまり男性に興味がないのか、言い寄られてもするりと躱しているきらいがあった。勿体ない話である。


「そういう先輩はどうしました? 例の、お母さんからの、あれ」

 先週の昼休み、一緒に昼食をとりながらそんな話を愚痴ってしまったのだ。

「あー、うん。また督促が来てた」

 苦笑いで返すと、

「もう、いっそ彼氏を作って駆け落ちとかしちゃえばいいのに」

「なるほど、それもいいかもしれないわね」

 駆け落ちなんて、ドラマの中だけの話だろうと思っていたが、確かに、本当に嫌ならそうやってどこかへ行ってしまうというのもアリかもしれない。


 しかし……、


 あずさにはわかっている。

 きっと自分はそんなこと出来やしないのだ。嫌だと言いながらもお見合いをし、嫌だと言いながらも決められた相手と結婚してしまうのだろう。吉宮家に生まれた以上、そうすることが普通で、当たり前で、逃げ出すほど大きな不満や個人的な願いなど持ち合わせていないのだから。


 午後の会議を終え席に戻ると、携帯に母からの着信があることに気付く。こんな時間に電話を掛けてくることなどない人だ。あずさは廊下に出て、電話を掛け直した。


「ごめん、会議だったの。なに? どうかした?」

『おじいちゃんが倒れたの!』

「ええっ?」

『今、病院にいるんだけど、これから実家の方に戻るから、あんた先に行って布団敷いておいてくれない?』

「ちょっと、大丈夫なのっ?」

『過労じゃないかって。少しお休みさせるわ』

「わかった。じゃ、午後休にしてもらってそっちに行くね」


 祖父ももう八十になった。普段は矍鑠かくしゃくとしているが、いつまでも若い頃のようにはいかない。改めて、そのことを突き付けられた気がした。


 あずさは上司に事情を説明し、半休を取ると急いで祖父の家へと向かった。



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