まどろみの中で、テオは良く知った春の陽光を思わせる、ミモザのさわやかで上品な香りで目を覚ました。
「……オズ……?」
寝起きでぼんやりとした頭を、ベッドのサイドチェストが置かれている方へ、ゆっくりと動かした。するとそこには、チェアに座ったまま眠る、オズヴァルドの姿があった。長い足を組み、腕組した状態で、すやすやと眠っている。――どのくらいの間、そばについていてくれたのだろう?
テオは、オズヴァルドがそばにいてくれたことに胸が高鳴るのを抑えきれず、ドキドキと早まる鼓動を感じながら、わずかに舟をこぐ秀麗な顔に手を伸ばした。
「――ん、」
すっとしたシャープなラインを描く頬に指先が触れる直前、オズヴァルドはぐずるように眉間にしわを寄せ、身じろぎした後に目を開いた。
「あっ」と、テオは小さな声を上げて、急いで伸ばしていた腕を引っ込める。するとその声で完全に覚醒したオズヴァルドが、
「……起きたのか」
と気だるげに言った。
「あっ、うん。ちょうど今さっき起きたところ」
言って、テオは布団の中にひっこめた手で、未だに落ち着かない心臓を胸の上から押さえる。――そうしたところで、早くなった拍動が落ち着くわけではないが、こうしなければオズヴァルドに鼓動を聞かれてしまうのでは? と心配になったのだ。
きっと頬も赤く染まっているだろう。けれどおあつらえ向きに、サイドチェストの上に燭台が一つ置いてあった。きっと、揺れるろうそくの灯が、テオの顔色をごまかしてくれるだろう。……そう願うしかない。
そわそわと落ち着かないテオの姿を見て、何を勘違いしたのか、オズヴァルドは「ウォータークローゼットに行きたいのか?」と聞いてきた。
男同士なので恥ずかしがる必要はないのだが、好意を寄せている相手に『もよおしたのか?』と訊ねられ、恥ずかしくてたまらない。
テオは、さっきの比ではないくらい、頬が熱くなるのを感じた。
「ちっ……ちがう! 変な誤解はよしてくれ!」
思わず大きな声で言ってしまい、少し過敏に反応しすぎたか、と今度は熱が引いていくのを感じる。一人で赤くなったり青くなったりしている表情は、薄暗い室内のおかげで、オズヴァルドに気づかれてはいないようだ。
テオは変な汗をかきながら、どんな顔をすればいいか迷った末、布団を頭からかぶるという戦法に出た。すると、はぁと呆れを含んだため息が、居心地の悪い空間に落ちた。
「ただの生理現象だろう? もよおすのは人間として当たり前のことだ。何を恥ずかしがる必要がある? ……それにお前は、丸一日眠ったままだったんだ。いくら飲まず食わずでも、出るものは出るだろう?」
『丸一日眠っていた』
その言葉に驚愕するが、しつこく下の世話を焼こうとするオズヴァルドに、さすがのテオもムッとする。顔を上半分だけ布団からのぞかせて、
「オズ。しつこい。俺はもよおしていない。だからこの話はもう終わりにしてくれ」
と不機嫌を隠さずに言った。
「そうか。ならいい」と、オズヴァルドは、素っ気なく答える。――自分から振ってきた話題のくせに、なんの変化も見られないいつもの仏頂面を見て、ますますイラッとした。
(……そばにいてくれて、嬉しかったのに)
テオがふてくされていることなど知りもしないオズヴァルドは、さっさと話題を変えて、テオが眠っている間のことを話して聞かせてくれた。
「……そうか。クラーラの幻影が見えること、バレちゃったんだな」
苦笑いしながら呟くように言うと、「馬鹿が」と、怒りをにじませた声が頭上に降ってきた。
「別に隠すようなものでもないだろう。お前が誰よりも優しいやつなのは昔から知っているが、こんな重要な問題を周囲に隠しておくような馬鹿だとはおもわなかった」
散々な言われように、反論する気も失せてしまう。
だが、テオにも譲れない思いがあったのだ。
「みんなを心配させたくなかった。……特にオズとレオには知られたくなかった」
「何故だ?」
「……女性恐怖症の件で、ただでさえ心配をかけてるのに、これ以上心配をかけたくなかったんだ。それに……」
「それに?」
テオは布団の中で、両手を強く握りしめる。
「二人に……弱い人間だと思われたくなかった。クラーラは、俺の弱さが作り出した幻影だから……それに、俺はいつも、負の感情から逃げてばかりだから……」
「テオ……」と、オズヴァルドは、驚いたように両目を見開いた。けれど、すぐに厳しい表情を浮かべ、
「お前はボクの話を聞いていなかったのか? ジョゼフ先生やボク達は、お前のことを弱いだなどと、これっぽっちも思っていない。お前が見るというカステリヤーノ令嬢の幻影は、罪悪感や自罰的な思いを抱いたときに現れるのだろう? それはお前が弱いからではなく、優しすぎるからだ。テオ。お前は、苦しまなくていいことで苦しんでいるんじゃないのか? カステリヤーノ令嬢のことではなく……何か、他の悩みを抱えているんじゃないのか?」
「ほかに悩み……は……」
――ある。
しかし、テオは自分がゲイだということを受け入れている最中であり、とてもじゃないがそのことをオズヴァルドに告げることはできなかった。だけど――
テオはゆっくりと上体を起こし、それを介助しようと腰を浮かせたオズヴァルドを手で制する。それから、しばしの沈黙の後、テオはオズヴァルドの青い瞳をまっすぐ見見つめた。
「本当に、いろいろと心配をかけてごめん」
「……そんなことは気にしなくていい」
オズヴァルドならそう答えるだろうと思っていた。
テオは大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出すと、
「最初に謝っておく。ごめん。俺が抱えているものを話すには、まだ時間も、勇気も足りないんだ。……さんざん醜態をさらしておいて、厚かましいお願いかもしれないけれど、俺の口から話せるようになるまで待ってほしい」
言って、頭を下げた。すると、数拍の間をおいて、ハァとあきらめの色が濃いため息が聞こえてきた。オズは、恐る恐る顔を上げる。
そこには、両手を上げて、降参のポーズをとったオズヴァルドがいた。
「……わかった。お前の言う通りにしよう。ただし、無理はしないことだ。少しでいい。これからは頼ってくれ。……頼む」
そう言って、オズヴァルドは、何故か泣き出しそうな顔をして微笑んだのだった。