オズヴァルドは、テオの寝室まで休むことなく走った。途中、すれ違う使用人たちに怪訝な目で見られたが、オズヴァルドの足が止まることはなかった。そうしてようやく目的の場所に到着すると、ノックもせずにドアハンドルに手をかける。勢いよく扉を開けると、ベッドのそばに立っているレオポルドと目が合った。
オズヴァルドは息を切らしながら、
「テオの様子はどうだ?」
と訊ねる。するとその質問に答えたのは、レオポルドではなくジョゼフだった。
「私がお答えしましょう」
ジョゼフは聴診器を耳から外して首にかけると、オズヴァルドを振り返り、縁なし眼鏡を中指で押し上げた。
「うなされておいででしたので、しっかり睡眠がとれるように、安定剤と睡眠薬を投与しました」
「そうか……ありがとうございます。先生」
素早い処置に感謝しながら、オズヴァルドは安堵の息を吐いて、スヤスヤと眠るテオの顔を覗き込んだ。テオの顔色はずいぶん良くなっていて、悪夢を見ることもなく、穏やかに眠っているようだった。
オズヴァルドは、テオの頬にかかる髪をよけてやり、ホッと肩の力を抜く。その背後で、レオポルドが、ジョゼフに質問を投げかけた。
「なあ、ジョゼフ先生」
「はい。なんでしょうか? レオポルド様」
「テオはなんで意識を失ったんですか?」
言って、レオポルドは腰に手を当て、首を横に傾ける。
「……それは、ボクも気になっていた」
オズヴァルドは、テオの腕を布団の中にしまいながら、顔を半分だけ背後に向けた。
ジョゼフは、テオを一瞥したあと、レオポルドどオズヴァルドを交互に見る。それから、外した聴診器を黒い革製の往診鞄の中にしまって、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
「私が診察したところ、テオ様の脈は、通常よりも速くなっていました」
「と、いうと?」
「……おそらく、それが原因で血圧が低下し、失神するに至ったのだと思われます。数日、安静になさっていれば、元の生活に戻れるでしょう」
「そっかぁ〜〜、すぐに良くなるってさ! よかったな、テオ!」
と言って、レオポルドは、テオのベッドサイドに駆け寄った。
オズヴァルドはレオポルドと入れ替わるように、帰り支度を終わらせ、鞄を持ったジョゼフに近づいていく。
「では、私は薬を処方して参ります」と、ジョゼフは、丁寧にお辞儀をした。そうして部屋を出ていこうとしたジョゼフの背に、オズヴァルドは、
「待ってください。……実は、先生にお尋ねしたいことがあるのです」
と言った。
ジョゼフは数拍おいてから半身のみ振り返り、
「私にお答えできる範囲でなら」
と、縁なし眼鏡を中指で持ち上げた。
『答えられる範囲で』と、先に釘を刺されてしまったことに、オズヴァルドは眉根を寄せる。
しかし、守秘義務を遵守するのは医師として当然の姿勢なので、異を唱えることはできない。オズヴァルドはため息をつくと、暖炉の前にあるソファへ向かって、手のひらを指し示した。
「立ち話もなんですから、あちらに座って話しませんか?」
「……わかりました。では、少しだけ、失礼いたします」
いちいち癇に障る言い方をしてくるジョゼフに、わずかばかりイラッとしながら、オズヴァルドは感情を押し殺してジョゼフの向かい側に座った。
「遠回しに聞くのは時間の浪費でしょうから、単刀直入にお伺いします。……テオは、女性恐怖症以外にも、何か別の病気を患っているのではありませんか?」
言って、ジョゼフの表情を観察する。
けれど、ジョゼフは眉一つ動かさなかった。流石、アルバーニ伯爵家お抱えの医師だと称賛したいところだが、なんの反応も見せなかったことが逆に疑わしく思える。
――核心を突くしかない。
オズヴァルドは、乾いた唇をひと舐めして、すうっと息を吸い込んだ。そして――
「……『クラーラ』」
と、呟いた。するとジョゼフは、
「――今、なんとおっしゃいました?」
そう言って、膝の上に置いている拳を強く握りしめた。
――やはり、なにかある。
おそらくテオは、もう一つの病名について、レアンドロたちには知らせていないだろう。誰よりも優しい奴だから、すべて一人で抱え込み、自らの問題を打ち明けないのだ。
――だからこそ、テオに寄り添ってやりたいと思う。そして、苦しみから解放してやりたいとも思っている。
テオが必死で隠そうとしている真実を暴くことに、とてつもない罪悪感を感じてしまうが、こうしなければ先に進めはしないとも思うのだ。
「クラーラ、と言いました」
「……それを何故、私にお聞きになるのです?」
「テオが気を失う前に、『クラーラ』と呟いたのです。クラーラとは、おそらく、クラーラ・カステリヤーノ令嬢のことでしょう。彼女は、テオの元婚約者で、……女性恐怖症を発症する原因になった女性です」
「…………」
ジョゼフは唇を真一文字に引き結び、こちらの真意を探るような眼差しを向けてきた。――どうやら、噓をつくことができない性格のようだ。かといって、患者の秘密を漏らす気配はない。
昨今では珍しい、貴族に媚びへつらわない姿勢に、オズヴァルドは好感を覚えた。
しかし、今回ばかりは、その強固な信念を曲げてもらわなければならない。
「ジョゼフ先生。あなたはとても良い医師のようですね」
「……彼の、ガレッディ侯爵家のご令息にそう言っていただけて、大変光栄です。ですが患者の秘密を口外するわけにはいきません」
「……そうですか。ならばボクも、強行手段に出るしかなさそうだ」
言って、オズヴァルドはおもむろに席を立つと、ソファの横に移動して床の上に両膝をついた。
「なっ!」
突然、オズヴァルドがとった突拍子もない行動に、さすがのジョゼフも戸惑いを隠せない様子を見せた。
やっと表情を崩したジョゼフを見て、自分の選択が間違っていなかったことを確信する。そして、オズヴァルドは床に両手をつくと、上体を前に倒そうとして――ガシッ! と肩を掴まれた。
「何をなさるおつもりですか!?」
「土下座です。……ジョゼフ先生は、
「オズヴァルド様……!」
しばしの間、オズヴァルドとジョゼフは視線を交わしたまま、二人の間に重い沈黙が流れる。そして、その沈黙を先に破ったのは、ジョゼフだった。
「……わかりました。私の負けです」と、ジョゼフは、疲れ切った表情を浮かべた。それから、膝まづいたままのオズヴァルドに向かって、右手を差し出してくる。
「私は医師として、まだまだたくさんの患者を救わなければならない、崇高な使命があるのです。……なのに、こんなところで不敬罪に問われ、収監されるわけにはまいりません。それに……オズヴァルド様がテオ様を想う気持ちは、十分に伝わりましたから」
オズヴァルドは照れを隠すように咳払いをしたあと、差し出されたジョゼフの手をとったのだった。