目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第32話 偽善者

 ようやく談話室に到着したテオは、うまく力の入らない手で、扉を二回ノックした。するとすぐに、室内から誰かが駆け寄ってくる気配がして、テオが凭れている扉とは反対側の扉が開いた。


「レ――」


「テオ! 戻ったのか」


 レオポルドが出てくるだろうと思っていたテオは、その一瞬だけめまいや動悸のことを忘れ去り、時が止まったような感覚に襲われた。


 だが、頭がズキッと痛んだことで、すぐ現実に引き戻される。


「う……っ」


 そうして膝から崩折れそうになった身体を、オズヴァルドが危なげなく抱きとめてくれた。薄っすら目を開けると、動揺に揺れる蒼穹の瞳が、ぼやける視界に映りこんだ。


「テオ、お前……! ひどい顔色をしているぞ! 体調が悪化したのか!?」


「は……はは。いろいろあってさ。最初に逆戻り、だな……」


 熱くないのに冷や汗をかき、手や唇がぶるぶると震える。唾液の量が減り、そのせいで口腔内がパサついて、喋るのも一苦労な状態だった。


 テオは頑張って笑顔をつくり、軽口をたたいたつもりだったが、オズヴァルドは深刻そうな表情を浮かべる。


「っ、くそっ! こんな状態になって戻ってくると分かっていれば、お前を一人で行かせはしなかった!」


 言って、オズヴァルドは端正な顔を歪めた。


「オズ……」


 テオのために憤っている姿を見て、トクンと胸がときめいてしまう。すると耳元で、


『テオ様ってば、男友達にドキドキしちゃったの? やだぁ、気持ちわるぅ~い!』


 と、クラーラ幻影が囁いた。


 ――きもちわるい。


 クラーラの言葉が心に突き刺さる。急に押し黙ってしまったテオを見て、オズヴァルドは、レオポルドを呼びに室内へ戻っていった。


『あれ? あれれ~? もしかしてテオ様ったら、ララの言葉に傷ついちゃった?』


 石造りの床にへたり込み、黙したまま顔を上げないテオの横に、クラーラは膝を抱えてしゃがみこんだ。そして――


『「俺がいないと存在できない、たかが幻影のくせに!」って、啖呵を切っていたのは誰だったかなぁ~~?』


 と、嘲笑しながら顔を覗き込んでくる。答えを分かったうえで、テオを煽ってくるクラーラに、何も言い返すことができない。すると数拍おいて、フンと鼻を鳴らしたクラーラが、白いドレスの裾を揺らしながら立ち上がった。


『なーんにも言い返してこないなんて。ララ、つまんなーい』


 ――ならば、さっさと消えてくれ。


 テオが心の中でそう願ったときだった。


『そーだ! ララ。テオ様に良いことを教えてあげようって思ってたんだった!』


 楽しげに言って、両手をパチンと合わせたクラーラを、テオはぼんやりと見上げる。するとニンマリ笑ったクラーラが、まるで内緒話でもするかのように、口の横に片手を当てて耳元で囁いた。


『あのね。テオ様。クラーラの秘密を教えてあげるね? クラーラが話す内容は、ぜーんぶ、テオ様が無意識下で考えていることなんだよ』


 『ララが言ってる意味がわかる?』と、クラーラは、クスクス笑う。反対にテオの顔から、サーッと血の気が引いていった。――と、いうことは。


『――そう。テオ様は、オズヴァルド様にときめいちゃった自分のことを、って思ってるってこと! ……て、ことはぁ〜?』


「……やめろ」


『テオ様の大切な親友、レオポルド様のことも気持ち悪いって思ってるってことだよねーー!?』


「やめろ!!」


『キャハハハ! ララ、知らなかった〜。レオポルド様の前では善人ぶって、セクシャルマイノリティに偏見なんてありません、って顔しておいて。テオ様って、反吐が出るくらい、たちの悪い偽善者だったんだね?』


 「ちがう! おれは……俺は……偏見なんて持ってない……っ」と、テオは、ズキズキと酷く痛み出した側頭部を押さえる。呼吸が速くなり、脂汗が滲んできた。痛みに耐えきれず、うめき声をあげながら、両手で頭を抱え込む。


『え〜〜? でもぉ〜〜。偏見を持ってないんだったら、「俺はゲイです」って、皆に言えるはずだよねぇ?』


「……っ、それはっ、そう……だけど……!」


『テオ様、隠してるじゃない。自分の性と、向き合おうとしてないじゃない。逃げてば〜っかりいるじゃない!』


 今にも倒れ伏してしまいそうなテオに構うことなく、クラーラはキャハハハと頭に響く声で笑いながら、バレリーナのようにくるくると可憐に回っていた。


(頼む……頼むから、もう止めてくれ……! 俺の心を揺さぶらないでくれ……! 俺を解放してくれ……っ!!)


 強く心の中で叫ぶと、まるでその声が聞こえたかのように、クラーラのダンスがピタッと止まる。喧しい声が止んだことにホッとしているテオの肩に、生温かい手がそっと触れた。その瞬間、ゾワッと肌に鳥肌が立って、勢いよく肩の手を払い落とした。


 ――バチン!


 と、肌と肌がぶつかる重い音がして、テオはハッと目を見開いた。


 ――クラーラじゃ、ない?


 焦って振り返った先には、叩かれて赤くなった手を庇うオズヴァルドと、驚愕の表情を浮かべたレオポルドがいた。


「……テオ、お前――」


 レオポルドに責めるような視線――少なくとも、テオにはそう見えていた――を向けられ、テオは「ちがう」「ちがうんだ」と、首を左右に振る。


 床に尻をついたまま、ずりずりと後退したが、すぐ木製の扉にあたって退路を断たれてしまった。すると、鼻先に不快な百合の香りが掠め、耳元にクラーラの気配を感じ取る。


『――――』


 耳元で舌っ足らずに囁かれたはずの言葉が、何故か脳内に直接響いて、テオを混乱の渦へと突き落とした。


「うわぁああああ!!」


 両耳を押さえて叫ぶと、頭の中でプツンと糸が切れたような音がして、ぐらりと身体が大きくかしいだ。ついで、片腕に衝撃を受け、床に倒れたのだと気づく。力なく投げ出した腕を、誰かが掴み取ったが、視界がぼやけて判別できなかった。


 けれど段々と暗くなっていく視界の中で、窓を背にして立つクラーラだけは、不思議と鮮明に視認することができる。


 クラーラは、白いエンパイアドレスを両手でつまみ、ゆらゆらと揺らしてくるりと回った。そして、ふっくらとしたピンク色の唇を、パクパクと動かす。


『ぎ・ぜ・ん・しゃ』


 それから、レオポルドの首に腕を回し、背中から抱きついて見せた。クラーラの行動に、強い不快感を感じたテオは、その名を叫んだ。


 しかし、実際には掠れた音が漏れただけに終わり、テオはそのまま気を失ったのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?