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第30話 外出の相談

  テオは、レアンドロと同じくティーカップを手に取り、紅茶を二口飲んだ。温かい液体が食道を通って胃に溜まる感覚が、不思議と安心感を与えてくれる。ほぅっと肩の力が抜け、口腔内がほどよく潤ったところで、ティーカップをソーサーの上に置いた。


 テオは、優雅に紅茶の香りを楽しんでいるレアンドロに、


「……実は、外出の許可が欲しいんです」


 と緊張しながら言った。


 レアンドロはすぐに答えず、ティーカップに口をつけて中身を嚥下したあと、感情の読めない笑みを浮かべた。


「外出?」


「はい。レオとオズと俺の三人で、アルバーニの丘へピクニックに出掛けたいと考えています」


「……ほう。ピクニックか。それはいい気分転換になりそうだね」


 想像していたよりも好感触を得て、テオの表情筋が緩んだ。テオはソファから立ち上がって、センターテーブルに両手をつく。


「それでは、許可して頂けるんですか?」


「ああ。許可しよう。そのピクニックには、いつ出掛けるつもりなん、」


「許可できませんわ!」


 レアンドロの声を遮ったカロリーナは、手に持っていたティーカップを、ガチャン! と荒々しくソーサーの上に置いた。


「あ、姉上?」


 恐る恐る声をかけたあと、テオはカロリーナの手元に視線を向けて、ハッと目を見開く。


「姉上……! 手に紅茶がかかって……!」


 パンツのポケットからハンカチを取り出そうとしたテオの手を、熱い紅茶を浴びて真っ赤になってしまっているカロリーナのほっそりとした手がつかんだ。華奢な見た目からは想像できない握力で握られ、テオの手からミシッと不穏な音が鳴る。


「いっ……!」


 痛みに顔を歪めるテオに、冷静でないカロリーナは気づかない。


「わたくしの手のことなどどうでもいいの! テオ。あなたは病人なのよ? それなのに、馬に乗って出かけるだなんて……! もし落馬でもしたら、どうするつもりですの!?」


「あ、姉上……」


「だめよ! だめ!」


 キャリーはテオの手を両手で握りしめ、祈りを捧げるように額を寄せると、悲痛な表情を浮かべて首を左右に振った。


 反対されるかもしれないと思っていたが、ここまで頑なな態度を取られるとは思っていなかったテオは、どうしていいか分からず途方に暮れるしかない。


 シーンと静まり返った室内に、カチャリと陶器同士のぶつかる音が響いたあと、ハァとレアンドロのため息が聞こえた。テオがそちらを向くと、珍しく眉間にシワを寄せたレアンドロが、ソファの背もたれに背中を預けて足を組み替えた。


「キャリー……それは、過保護というものだよ」


 レアンドロが言い終わると同時に、俯けていた顔を上げたカロリーナは、泣き出す寸前のような表情を浮かべた。


「でも、お兄様! テオの体調は、最近やっと落ち着いてきたばかりですのよ!?」


 カロリーナの訴えに、レアンドロは同意して頷いて見せた。


 「でもね、キャリー。……見てごらん」と、レアンドロは、テオを手のひらで指し示す。


 レアンドロの言葉に首を傾げたのは、カロリーナだけでなく、テオ本人もだった。


 カロリーナは言われた通りにテオの方を見た。二人の赤い瞳が至近距離で合わさる。するとカロリーナは、ビクッと身体を揺らし、震える手で口元を覆った。


「テ、テオ……あなた……」


 カロリーナが震える手で、テオの左頬をそっと触った。やけどした部位はほんのり熱を持っているのに、労わるように肌を滑る指先は、驚くほど冷え切っている。――やはり、早く手当をしたほうがいい。


 「姉上、」と、テオは、カロリーナの手を優しく握った。すると、自分と同じ色をした赤い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれだす。ぎょっとしたテオは、泣くほど触れた場所が痛かったのかと、とっさに謝ろうとした――が、カロリーナに抱きしめられてしまってできなかった。


「姉上? どうなさったのですか? やはり、やけどが痛んで……」


 カロリーナの表情を確認しようと、テオがブラックドレスに覆われた華奢な肩をつかむと、


「っ、違うの……違うのよ……テオ」


 と言って、カロリーナが顔を上げた。


「……テオ。ごめんなさい」


 謝られた理由が分からず、テオは首を横に傾ける。すると、ますます表情を崩してしまったカロリーナが、嗚咽を漏らしながらレアンドロの方を向いた。


「お兄様……どうしましょう……! わたくしのせいで、テオが……!」


「……おそらく、一時的な症状だとおもうけれど、念のためにジョゼフ医師を呼んで――」


 自分を置いてきぼりにして、どんどん話が進んでいくのを黙って見ていられず、テオは二人に静止の声をかける。


「お待ちください、お二人とも! 俺には一体なんのことだか……! 俺にも分かるように説明していただけませんか?」


 しばしの間、室内に沈黙が落ちた。テオは、レアンドロの青い瞳をじっと見つめて、根気強く返事を待つ。するとレアンドロは、姿勢を正して、テオとカロリーナに着席を命じた。レアンドロの言葉に大人しく従った二人がソファに座ると、今度はレアンドロが席を立ち、執務机に向かって歩き出した。


 「兄上……?」と、テオは、レアンドロの行動に疑問を持つ。


 レアンドロは、机の引き出しから手鏡を取り出し、それをテオに手渡してきた。


 ますます訝しむテオだったが、大人しく手鏡を受け取った。――これをどうしろというのだろう?


 テオの心の内を読んだかのように、レアンドロはクスッと苦笑して、鏡を見てみるように促してきた。そうして、すすめられるがままに手鏡を裏返して、鏡面に映った自分の顔を見て驚愕する。


「うそ……どうして……」


 テオは小刻みに震えだした手で、顔の輪郭をなぞった。本来であれば、驚いた表情のテオが映っているはずなのに、今のテオは無表情だった。試しに笑顔をつくってみるが、感情のない顔が映っているだけで、まるで心と身体が切り離されたような奇妙な感覚に陥る。


 テオは力なく腕を下ろした。手鏡が、緩んだ手の中から滑り落ち、コトンと音を立てて床に転がる。


 ――やっと、いつもの自分を取り戻しかけていたのに。


 「……どうして……?」


 もっと言いたいことはあるはずなのに、カサカサに乾いた唇から出てくるのは、疑問の言葉だけだった。そして――


『きゃはははっ』


 百合の匂いをまき散らしながら、消えたはずの幻影が、再び姿を現したのだった。

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