――コンコン、と扉をノックする音で、テオは
ふわふわとした心地で、むくっとベッドから上体を起こす。ぼんやりと霞む視界に、こしこしと目元を擦った。
「誰だ?」
寝起きのかすれた声で扉の向こうに声を掛ける。
「テオ様。レアンドロ様がお見えになっております」
メイドの抑揚のない声に、テオは目をパチクリとさせた。
「……兄上がいらっしゃったのか?」
珍しい来訪者に、テオは小さく呟いたあと、レアンドロの入室を許した。キイィ、と扉が開く音がして、テオは急いで寝間着の上にガウンを羽織る。それから薄緑色の
「あっ、兄上……!」
ボサボサの黒髪を手櫛で梳いて整えながら、悠々と入室してきたレアンドロの前に馳せ参じる。レアンドロがきょろりと室内を見回した姿を見て、テオは室内が暗く埃っぽいことを思い出し、顔が紅潮するのを感じた。
――今の室内の状態は、テオが望んで作り出したものだ。
はじめは、忌まわしい庭園の景色を視界に入れたくなくて、カーテンを閉めていた。けれど、庭園が見えない位置の部屋に移動した今も、
しかし、見た目はそうではない。入浴したくても何故かできず、身支度をするのもおっくうで、仕方なくこのままでいるのだ。まるで、脳と身体が別々になったかのように、全てが思い通りにいかなかった。
敬愛し、憧れているレアンドロに無様な姿を見られただけでなく、だらしのない室内まで見られてしまった。母のように慕っているカロリーナや、ふざけ合う仲のレオポルドには平気で接することができたのに、レアンドロを前にするとそうはいかなかった。
いつも余裕のある笑みを浮かべ、滅多に人を叱責することがないレアンドロだが、今回ばかりは叱られてしまうのではないか。そう思うと、手足の先が冷えていき、嫌な汗をかきはじめる。
「――テオ」
「はっ、はい。なんでしょう? 兄上」
ビクッと肩を揺らしてレアンドロを見上げる。するとレアンドロは、フッと柔らかく微笑んで、テオの頭の上に優しく手を置いた。驚いてポカンとしていると、レアンドロは慈愛に満ちた瞳を向けて、よしよしと頭をなでてくれた。
――レアンドロに頭をなでてもらうなど、いつぶりだろうか?
少々、気恥ずかしく思いながらも、喜びを隠せなかった。テオは口元が緩むのを抑えられず、かといって幼子のようにはしゃぐことはできないので、うろうろと視線を彷徨わせながらされるがままでいた。そうしてしばらくすると、大きくて温かい手の平が離れていった。
「テオ。お前と少しだけ話がしたいんだ。体調は大丈夫かい?」
こちらを労るような優しい声音で問われたが、叱責されるかもしれないという不安を拭い去ることができず、テオは緊張しながらコクリと頷いた。――テオの考えを見抜いたのだろう。「そう心配するな。叱りに来たわけではないよ」と、レアンドロは言った。その言葉にホッとしたテオは、暖炉の前の応接スペースに向かい、上座の一人掛けソファへレアンドロを案内した。
礼を言ってソファに腰を下ろしたレアンドロは、本革張りのソファのアームレストを懐かしそうになでた。
「キャリーがテオの為に、この部屋を設えたと聞いていたけれど、調度品はほとんどそのまま使ってくれているんだね。嬉しいよ」
「いえ、俺はただ、姉上に全て任せきりにしてしまっただけですから……それで、兄上。お話というのは?」
「ああ、そうだったね。……レアンドロ君からお前の状態を聞いてね。女性恐怖症の治療に明るい医師を呼んだんだ。少々神経質そうな青年だったが、患者のことを一番に考えることができる、優秀な医師だったよ。名を『ジョゼフ・パンナム』という。老医師の弟子らしい」
その後も、テオの知らないところで交わされた会話の内容を聞かされた。そして、「治療の意思はあるかい?」と訊ねられる。テオは逡巡することなく、「はい。あります」と答えた。
こうもすんなりと、話がまとまるとは想定していなかったのだろう。レアンドロは珍しく気遣わしげな表情を浮かべた。
「……本当に大丈夫なのかい? 無理をする必要はないのだよ?」
テオを心の底から案じてくれるレアンドロの優しさに感謝しながら、テオはぎこちなく微笑んでみせた。
「俺もこのままじゃいけないと思っていましたから。……それに、つらいんです。本当に。この苦しみから解放されるなら、ジョゼフ医師の治療を受けます。――いえ。受けさせてください」
「テオ……お前の気持ちは良く分かったよ。では、早速明日の午後に診察をお願いしようと思う。……それでいいかい?」
「はい。大丈夫です。よろしくお願いします、兄上」
テオが頭を下げると、レアンドロは再びテオの頭を優しくなでた。そしてそのまま席を立つ。
「忙しなくて申し訳ないが、仕事が山積みでね。お前が辛い時に、側にいて支えてやることができず、すまない」
「いいえ! 兄上が謝る必要はありません! アルバーニ伯爵家が存続しているのも、領民たちが生活できているのも、俺が聖騎士養成所に通えるのだって兄上のお陰なんですから」
「……そう言ってもらえると、私の心が救われるよ」
「ありがとう」と、レアンドロは退室していった。
「お礼を言うのは俺の方なのに……兄上は真面目すぎるんだ……」
――何はともあれ、一歩進むことができた。
たったそれだけで、テオは暗闇に光が差したような気がしたのだった。