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第16話 幻影

 オズヴァルドに親指の手当をしてもらった夜。テオは不思議な高揚感に包まれて、なかなか寝付くことが出来なかった。それは、いつもの不眠症による寝付きの悪さとは違うものだった。


「痛い……」


 テオは親指に痛みを感じる度に、オズヴァルドのことを思い出す。そして、親指が熱をもってジンジンと拍動すると、テオの胸もドキドキと鼓動が早くなるのだ。


 ――それは一体、何故なのか?


 テオには理由が分からなかった。


 しかし、不快感は全くなく、むしろ幸福感に似た感情をもたらしてくれる。


「……今日は悪夢を見ない気がする」


 カロリーナに頼んで、兄レアンドロが使っていた部屋に移ることができたし、窓の外からは忌々しい庭園は見えない。それに、レアンドロとオズヴァルドと楽しく過ごせたのも、良い気分転換になったと思う。そして――


『今度から、『様』付けをする男はボクだけにしろ。約束だ。――たがえるなよ?』


 昼間、オズヴァルドに囁かれた言葉を思い出し、テオは自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。


「オズヴァルドの唇……俺の耳に触れそうなくらい近かった……」


 あの時のゾクゾクとした甘美な感覚が蘇って、テオは熱い息を吐き出し、右手が自然と男にとって大事な場所に伸びていった。いけないことだと思いつつも、恐る恐るその場所に触れてみる。するとそこは、ゆるりと反応を示していた。


「っ、」


 テオは驚いて一度は手を離したものの、本能の赴くままに再び手を伸ばし――


「――痛っ!」


 ズボンに引っかかった親指の痛みで、ハッと我に返った。


「……お、俺……今、何をしようと、」


 途端に顔から熱が引いていくのを感じ、邪な感情を抱いた罰かのように、親指の痛みが増した。


 あれだけ激しく高鳴っていた心臓は落ち着きを取り戻して、心中を占める感情は罪悪感だけになった。


 テオは震えだした両手で顔を覆う。その耳元で、ここに居ないはずのが囁いた。


『なぁんだ。テオ様。あなたもララと一緒じゃない』


 「違う!」と、テオは咄嗟に両耳を塞いだ。……でも分かっている。こんなことをしても無駄だって。今ここにいる彼女――元婚約者のクラーラは、テオが生み出した幻影なのだから。


 クラーラは、アハハ! と笑って、いつものようにテオの身体に跨ってきた。


『……ねえ。溜まってるんでしょ? ララが手伝ってあげよっか?』


「た、溜まってる……って、何が?」


 『テオ様ったら、とぼけちゃってぇ』と、クラーラはクスクスと含み笑いながら、腰を前後に揺すってみせた。


『本当はこういうことしたいんでしょ?』


「――違う! 俺はっ、あんな下品で淫らなことはしたくないっ!」


 そう言って、テオはベッドから飛び降りた。そして、初めて真正面からクラーラの幻影と対峙する。ダラダラと冷や汗を流して、肩で息をするテオに、クラーラは冷めたような視線を向けてきた。


『……下品で淫らって。その行為の果てに、テオ様やキャリー、レアンドロ様はお生まれになったのよ?』


「そっ、それは……っ! そうだけど! ……でも、俺はしたくないんだ!!」


『どうして?』


 クラーラは、こてんと首を傾けて、スルリとベッドから降りた。そして、テオを追い詰めるように、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。


「どうして? って……さっきも言ったじゃないか!」


『でも、相手のことを愛していたら、身も心も繋がりたくなるものよ。……だからテオ様だって、繋がりたくなったんでしょう? オズヴァルド様と』


「……えっ?」


 ほんの一瞬。テオの思考は停止する。そして、わななく口から、ハハッと乾いた笑い声が出た。


「俺が、オズとなんだって?」


 ムッと眉根を寄せたクラーラは、後ろで手を組んで、ずいっとテオに近づいてきた。


『だーかーらー。したくなったんでしょ? セックス』


 そう言って、クラーラは口づけをするように、テオに顔を寄せてくる。


 「うわぁっ!」と、テオは後ろにたたらを踏んで、ついに壁際まで追い込まれてしまった。


『……そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。これでも元婚約者なのに』


 『ララ、傷ついちゃった!』と、クラーラはスンスンと鼻を鳴らした後、ニヤリと唇の端を吊り上げた。


『……だから、テオ様。責任取ってね?』


 と言って、クラーラの唇がテオの唇に触れた。しかし――


 恐怖で目を開けたままだったテオの瞳に映ったのは、クラーラの顔ではなく、オズヴァルドの顔だった。


 普段、美しい青い瞳の回りを縁取っている銀色の長いまつ毛を、テオは信じられない思いで見つめた。胸がドキドキと高鳴り、触れ合った唇から、甘く気持ちの良い痺れを感じ取る。


 軽く触れるだけの口づけなのに、今にも破裂してしまいそうなほど、心臓は強く拍動していた。


 だが、テオの心臓が壊れてしまう前に、オズヴァルドの唇が離れていく。それを寂しく感じながら瞬きをすると、目の前にはクラーラの顔があった。


「っ、!」


 驚愕して固まるテオを見て、クラーラは心底楽しいといわんばかりに、キャハハハハ! と耳障りな笑い声を上げる。そして壁に背中を預けたまま、ずるずると床にへたり込んだテオの顎を、ほっそりとした指ですくい上げた。


『あーあ。大切な幼馴染を汚しちゃったね?』


 『男同士なのに幸せそうにキスしちゃって。テオ様、気持ちわるーい』と、クラーラはくるくる踊りながら、スウッと姿を消した。


 テオは呆然としたまま、虚ろな目で宙を見つめ、目尻から涙を流したのだった。


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