朝の身支度が終わった後で、テオは、別室に移りたいとカロリーナに相談した。すると、昔、兄――レアンドロが使っていた部屋をすぐに用意してくれるという。
今夜には移れるようにしてくれると聞いて、テオは心の底からホッとした。――これで悪夢を見なくなればいいのだが。
――アルバーニ邸、談話室。
朝食を終えたレオポルドとオズヴァルドに混ざって、テオは三人で談笑していた。
「――俺はステルラから馬車でこっちに戻ってきたんだ。だから、馬で旅してきた二人のことが羨ましいなって思って」
「あっ、もちろん、大変だっただろうけど!」と、テオは慌てて付け加える。
「そんなに恐縮しなくていいって! テオに言われて来たんじゃなくて、オレたちが勝手に押しかけたんだからさ」
レオポルドが可笑しそうに笑う。そして、馬での短い旅の話を面白おかしく聞かせてくれ、テオはますます二人のことが羨ましくなってしまった。
「いいなぁ……」と、テオが囁くようにつぶやいた言葉が、オズヴァルドの耳に届いたらしい。
「旅することは出来ないが、馬を見てみるか?」
思いがけないオズヴァルドの提案に、テオは思わず前のめりになった。
「えっ、いいの!?」
「いいも悪いも、そもそもボク達の馬じゃない」
素っ気ないオズヴァルドの言い方に、
「テオ。オズはこう言いたいんだ。『いいに決まってるじゃないか。ボク達の馬じゃないけどね』って」
「なっ! 照れ屋さん?」と言って、レオポルドはオズヴァルドの肩に片腕を回した。その腕を容赦なく引っ剥がしたオズヴァルドは、
「ボクは照れてなんかいない! あと馴れ馴れしく触るな」
と言った。レオポルドは口元に手を当てて、ニヤニヤしながら「そうなんでちゅか〜〜?」と、オズヴァルドを挑発する。あれは怒るだろうな、とテオは心中で思っていたが、予想は外れてしまう。
「馬鹿なことを言うな。ボクがテオに対して照れるわけがないだろう? だってボクたちは、」
「『ボクとテオは物心がつく前からの幼馴染』って言うつもりだろ?」
「何故、分かったんだ?」
「同じことを何度も聞かされたからに決まってんだろーが」
ワイワイ、とテンポ良く言い合う二人の姿を見て、テオは自分一人が置いてきぼりにされたような気がした。
――テオと一番仲の良かった親友のレオポルドが、テオに向けるのと同じ笑顔をオズヴァルドに向けている。オズヴァルドは、テオには絶対にしない気安い態度でレオポルドに接している。
寂しいと思う気持ちに混じって、モヤモヤとした気分が悪くなる感情が、テオの心を支配していく。カリ……カリ……と、硬い何かの音がして――
「おい、テオ! お前、親指が血だらけだぞ!」
「……え?」
レオポルドに強く手を掴まれて、硬い音の正体が、自分が爪を噛んでいた音だと気付いた。
「俺、何して……ごめん。全然気が付かなかった……」
意識した途端、口の中に鉄の味が広がっていることに気がついて、テオは咄嗟に手を隠そうとした。が、レオポルドが手を掴んだままで、腕を動かすことが出来ない。
「レオ。手を離してくれないか? 大丈夫だから」
そう言うと、レオポルドは少し怒った顔をして、
「これが大丈夫なわけないだろ!? よく見てみろよ! 爪が割れてるんだぞ!」
「あ……でも、全然痛くないし」
「……そういう問題じゃない。レオ。そのまま、テオの手を掴んでいろ。また無意識に自傷行為をするかもしれないからな」
「わかった」と、レオポルドは頷いて、テオの隣に移動してきた。「自傷行為……?」と、テオは首を傾ける。それを見たオズヴァルドの表情が、険しいものから、痛ましいものに変わった。
オズヴァルドは、テーブルの上に置いてある
「オ、オズ! そこまでしなくても……!」
「お前は黙っていろ」と、オズヴァルドに睨まれて、テオは口を閉ざした。
ほどなくして戻ってきたメイドは、テーブルの上に道具の乗ったトレイを置いて、お辞儀をして下がっていった。その頃には血が固まりかけていて、余計に痛々しい見た目になってしまっていた。
「……ほら。手を出せ」と、綿球に消毒液を浸けたオズヴァルドが、こちらに左手を差し出してきた。テオはレオポルドから解放された手を、オズヴァルドの手のひらに乗せる。テオは、自分の親指を真剣な表情で手当するオズヴァルドを、ぼうっと眺めていた。
「そんなに見つめられると、非常にやりにくいんだが」
言って、オズヴァルドは上目遣いに見てくる。透き通った蒼穹の瞳を向けられて、テオの心臓がドクンと跳ねた。テオは自分の頬が紅潮していくのを感じながら、ごめん、と言って俯いた。
消毒が終わり、優しい手つきで包帯を巻かれている間、テオの心臓はドキドキと拍動し続けた。手汗をかいてしまっていることが、とても恥ずかしくて、早く終わってくれと両目をグッとつむる。
「ほら、出来たぞ。これでいい」
そう言って、オズヴァルドの手が離れていく。テオは礼を言って、包帯の巻かれた親指をしげしげと見つめて、大事なものを抱くように胸に寄せた。
「これじゃあ、乗馬はしばらく無理だな」
隣に座るレオポルドに言われて、テオは「そうだね」と返した。消毒液が傷口に染みて、親指が熱を持って、ズクズクと痛んだ。その痛みが、不思議と甘美な感覚に思えて、テオは緩みそうになる口元を引き締めたのだった。