「あ、ああ。そうだけど……どうしたんだい、クラーラ」
「……っ、そんな……」
クラーラは俯いて小刻みに肩を震わせる。それから暫くして勢いよく顔を上げると、大きな青い瞳をうるうるさせてオルランドに抱きついた。
「オーリー、いえ、オルランド様。ララ達がしたことは全て間違いだったのよ」
そう言ってクラーラは、どういう意味だ、と戸惑い訊ねるオルランドの腕の中から抜け出した。すると今度は涙を流しながらソファから立ち上がり、金糸に光の束を集めたようなきらびやかな金髪をひるがえして、レアンドロの前にドサッと膝から崩折れた。
「おや。これは一体どうしたことかな?」
興味深そうにクラーラを眺めたレアンドロは、こちらを一心に見遣るクラーラに、『立ちなさい』というジェスチャーを送った。
しかし、クラーラは首を左右に振って、断固として立ち上がらない。
クラーラは、三人の視線が自分に集中する中、神に祈るように胸の前で両手を組んだ。
「アルバーニ伯爵様。この度は誠に申し訳ありませんでした」
そう言って、クラーラは深々と頭を下げた。
予想外の展開に一同が静まり返る中、ソファから立ち上がったオルランドが、クラーラの側に駆けつける。
「何をしているんだい、クラーラ! 君がひとりで謝ることはない! 僕も一緒に、」
「あなたは黙っていて下さい。オルランド様」
言って、クラーラは、オルランドに掴まれた腕を振り払った。
「なっ、」
クラーラに拒絶されたオルランドは、顔に絶望の色を濃くして、後ろによろめき不格好な姿でソファに倒れ込んだ。クラーラはオルランドを振り返りもせずに再び頭を下げる。
「アルバーニ伯爵様。ならびに、カロリーナ様。改めて謝罪いたします! この度のことは、一種の気の迷いだったのです! ララは、オルランド様のことを本気で愛したことなどありません!」
クラーラが叫ぶように言い切ったと同時に、ノックもなく客間の扉が開いた。廊下の窓から挿し込む光を背負って現れたのは、メイドではなく、部屋にこもっているはずのテオだった。
「それってどういうこと?」
十六歳の少年にしては高い中性的な声で、テオは気崩れた制服姿のままで室内に歩を進めていく。
クラーラは、ぐしゃぐしゃになっている身なりを手早く整えると、真珠のような涙を流しながら花咲くように微笑んだ。
「テオ様……!」
二人が見つめ合う中、放心状態のオルランドをよそに、レアンドロはカロリーナに顔を寄せた。
「テオを呼んだのはお前かい? キャリー」
「ええ、そうよ。お兄様。メイドに頼んで、わたくしが連れてこさせたの」
「はぁ……まったく、キャリー……お前って子は……」
こめかみを押さえて眉間にしわを寄せるレアンドロとは反対に、カロリーナは扇を開いて口元を隠し、フフフと楽しげに笑い声をこぼした。
「これもテオのことを思えばこそです。女の汚いところを知って、いい勉強になったでしょう。これで次は、失敗することなく良い伴侶を得られるはずですわ」
フフン、と自信満々に言い切ったカロリーナを一瞥して、レアンドロはやれやれと首を左右に振った。
「お前の思い通りに事が進めばいいが、もしかすると、もっと厄介なことになるかもしれないぞ?」
「その時はその時です。わが国ディエボルンには、『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』という素晴らしい訓戒がございますでしょう?」
「まあ、とにかくご覧になって」と、カロリーナに肩を叩かれたレアンドロは、苦笑いを浮かべてテオに視線を移した。
テオとクラーラは、無言で見つめ合ったまま、どちらとも動こうとしない。普段のテオならばハンカチを手に持って、急いでクラーラに駆け寄るのだが、そうする様子は見受けられない。
一同が固唾を飲む中、口火を切ったのは、やはりクラーラだった。
「テオ様……ララに会いに来て下さったのね……!」
涙と美貌と光源を駆使して、クラーラは儚い令嬢の姿を演出する。しかし、扉の前で話を立ち聞きしていた――カロリーナの命令で――テオの心には響かない。
テオは、顔を半分だけ後ろに向けると、アルバーニ家の家令を呼んだ。そして小声で何事かを話したのち、テオはとある紙切れを家令から受け取った。
一礼して退出していく家令を視線で追っていたクラーラは、すぐ目の間でテオが片膝をついたことで我に返った。そして、クラーラは、無言で差し出された紙切れを笑顔で受け取った。それから、文面を目で追っていき、たちまち表情を強張らせていく。
「テ、テオ様……これは……っ」
「婚約破棄の手続きに必要な書類だよ。君はここにサインしてくれるだけでいい。あとは国王陛下になんとかしてもらうよ。あ、その書類は国王陛下の印影が押してあるから、破らないでね。俺が怒られてしまうから」
「はい、羽ペン」と、無表情でクラーラに羽ペンを握らせたテオの横顔を見て、クラーラはさらにカロリーナとレアンドロの顔を見回した。
三人共、とても美しい黒髪をしている。なかでもカロリーナの黒髪は一等美しく、整った容姿も相まって、生前の母親に良く似ていると社交界で騒がれていた。
ここ
――若くして、馬車の事故で亡くなっていたとしても。
クラーラは己の浅はかさと、見識の無さ、そして安易に爵位だけを見て男に取り入った自分を恥じて絶望した。
クラーラは書類に署名し終わると、それをメイドに預けて、カロリーナを見遣った。
「まさか、キャリーの……あなたたちの伯父が国王陛下だったなんて……っ! ララを騙したのね……っ!!」
怒りで顔を赤く染め上げたクラーラを、カロリーナはチラッと一瞥して、にっこりと艶やかに微笑んだ。
「だって、聞かれなかったんだもの」
――社交界では、公然の事実なのだけれども。
こうしてテオはクラーラ・カステリヤーノ子爵令嬢と婚約を破棄し、親友だったオルランド・ガレッディ侯爵令息との縁を切ったのだった。