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第2話 私刑

 テオが自室で涙を流している時、屋敷の一階にある客間では、話し合い――と、いう名の暴言が飛び交っていた。その暴言の主は、テオの姉であるカロリーナ・ラ・アルバーニである。


「あなた達! わたくしの家で! 私の弟に! 何をしてくれたんですの!?」


 上座のソファーに並んで座るクラーラとオルランドは、激昂しているカロリーナの迫力に押され、俯いたままぶるぶると身体を震わせていた。


 カロリーナはというと、どこから持ち出してきたのか、教鞭マルティネを右手に持っている。時折マルティネを、パシン! と左手で受け止める音に、クラーラとオルランドは何度も肩を跳ねさせた。


 「オーリー」と、クラーラが小声で話しかけると、近づいた二人の顔の間にマルティネが振り下ろされた。悲鳴を上げて、同時に飛び退けた二人を見て、カロリーナはフンと鼻を鳴らす。


「誰が喋っても良いと許可したのかしら? 少なくともわたくしではないわ。……ねえ、クラーラ。あなたは誰から許可を得たの? 無知なわたくしに教えて下さる?」


 「むっ、無知だなんて、」と、クラーラが震えながら答える。するとカロリーナは態度を一変させて、ハァと儚げなため息を吐いた。


「両親を早くに亡くして、わたくしは、テオの母親代わりを務めてきたわ。婚約者を選ぶ時も頭を悩ませて、最良の相手を選んだつもりだった。……クラーラ。私の親友。無知なわたくしに教えてちょうだいな。一体、どのような神経をしていれば、婚約者の家でに及ぶことができるのか。良心というものを持ち合わせているのなら、親友の大事な弟を悲しませることなんて出来ないはずよ。……ねえ。教えてちょうだい?」


 マルティネを持ったまま、カロリーナはゆらりと佇み、こてんと首を傾けた。


 社交界の薔薇と呼ばれている美貌は、表情を無くすと無機質な人形ドールのようで、見る者に凄まじい恐怖心を与える。――現に、室内の空気は冷え、重みを感じさせ、二人は身体を震わせていた。


 何も答えず、大きな瞳に涙の膜をはったクラーラを見て、カロリーナは「困ったわねぇ」と言って、白磁の頬に左手を添えた。


「白昼堂々、男の唇を貪り食うことができる立派なお口を持っているはずなのに、何も喋らないなんて。もしかして、今更、事の重大さを思い知って、怯えてしまっているのかしら?」


 クラーラは俯いて、両手を握り締めながら、ポロポロと涙をこぼし始めた。それを見たカロリーナは、あらあらと鷹揚に言って、ドレスからハンカチを取り出すと、それをクラーラに差し出した。


 ようやく笑顔を取り戻したクラーラが、礼を述べてハンカチを受け取ろうとすると、ひょいっとかわされてしまう。


「――え? キャリー?」


「馴れ馴れしく呼ばないでくれるかしら。でも、そうね。元親友の情けで、わたくし自ら、あなたの涙を拭いてあげるわ」


 カロリーナは、聖女のような微笑みを浮かべて、クラーラの顔面にハンカチを押しつけた。そして力任せに白い肌を擦る。柔い肌はすぐに赤くなり、クラーラは「痛い」「やめて」と泣き叫ぶ。


 さすがに看過できないと思ったのか、今まで震えていたオルランドは、カロリーナの細い手首を掴んだ。


 カロリーナは汚物を見る目をオルランドに向ける。


「今すぐ、この汚らわしい手を放しなさい」


「……放したら、もう酷いことはしないか?」


 オルランドの言葉に、カロリーナは天井を仰いで、アハハと軽やかに笑った。そして力任せに、オルランドの手を振り払うと、蒼穹を思わせるオルランドの青い瞳をひたと見据えた。――普段は、ルビーのように澄んでいて美しいカロリーナの赤い瞳は、光を失い暗く沈んでいる。


「『酷いこと』ですって? ハッ! どの口がそのような恥知らずな言葉を口にしたのかしら?」


 「ああ。このお口ね?」と、カロリーナはマルティネの先をオルランドの口元に向けた。そして――


「躾けのなっていない悪いお口は、叱ってあげないといけないわね?」


 言って、カロリーナはマルティネを大きく振りかぶり、オルランドの顔面に打ち下ろした。


「きゃーっ! オーリー!」


 パシーン!


 が、その行動は、いつの間にか現れたアルバーニ伯爵家当主の手によって防がれてしまう。


「……お兄様。邪魔をなさらないで」


 お兄様と呼ばれた、アルバーニ伯爵――レアンドロ・ル・アルバーニは、濡羽色の黒髪をサラリと揺らし、父親と同じアクアマリンのような、透明度の高い青い瞳をクラーラとオルランドに向けた。


 ぶるぶる震える二人に、レアンドロはタレ目がちの目元を緩め、当主として毅然な態度で頭を下げた。それに血相を変えたのはカロリーナだ。


「っ、お兄様! 何故、お兄様がこの者たちに――」


 カロリーナの言葉を、レアンドロは右手を挙げて静止させた。それからゆっくりと上体を起こすと、カロリーナを下座のソファに座らせ、自らもその横に腰を下ろした。


 「先程、頭を下げたことについてだが……」と、レアンドロは温厚そうな表情を崩さずに、組んだ両手を膝の上に置いた。


「あれは、カロリーナの蛮行な振る舞いに対しての詫びだ」


「お兄様! テオは飲食を避けて部屋から出て来ないのですよ!? あの繊細で潔癖なテオの前でこの者達は――」


「キャリー」


 いつになく低い声音で名を呼ばれて、カロリーナはぐっと言葉を飲み込んだ。


「キャリー。私達は貴族だ。カステリヤーノ嬢やオルランドも貴族。よって、私刑は認められない」


「……では、どうなさるのです?」


 カロリーナに問われたレアンドロは、薄く艶やかな唇の口角を上げて、にこりと微笑んだ。


「国王陛下に上奏する」

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