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第39話:『剣聖』

「──……、……」


 会場が静寂に包まれる。俺の中段は対上段用の構えである平正眼ひらせいがんに変化する。切っ先の延長線を千虎の左拳に合わせるように、面打ちと小手打ち、両方に対応できるようにする。


 今は上段の間合いだ。俺の間合いまで、あと一歩踏み込む必要がある。

 しかし、千虎はそんな隙を俺に与えてくれるような剣士ではない。


 集中。研ぎ澄ませ。微塵も警戒を怠るな。ヤツの放つ殺気を感じ、先の先を斬り落とせ。

 睨み合い。一瞬を今か今かと狙い澄ます駆け引きと探り合い。


 呼吸が止まる。次に吸ったら最後、即座に首が飛んで試合終了だ。

 根性と我慢の比べ合い。ヤツと俺、どっちの心が耐えきれなくなるかの勝負。


「──……なぜ、折れへん……?」


 圧倒的な力量を見せつけた千虎にこそ精神的な余裕はあるだろう。分かってる。百どころか千も万も承知だ。ずっと俺はおまえに挑み続ける立場だったんだから。


 だから知らねぇよなおまえは。諦めない泥臭さを。

 負けを知るからこそ足掻ける執念。不撓不屈ふとうふくつの精神。諦めない心。


 あの二人が俺に惚れ込んでくれたのは、実はここだったんだぜ。

 だから負けるワケにはいかない。俺の背には二人分の手が添えられて──、


「負けを知るからこそ……死に物狂いになれんだよ」

「ほざけ。負け犬の遠吠えや」


 空気が帯電する。僅かな刺激で道場ごと吹き飛ばすと、会場の全員が察知したのだろう。

 結も、奏ちゃんも、佐々木も、全員が全員、息すら止めた。


 腕から汗が伝う。肘の先から床に垂れる──その瞬間、


「──ッッ!」


 微かに動いていた間合いが、いよいよ爆発した。

 千虎が動く。刃のように鋭く小手を狙う。予備動作を全く必要としない無拍子の小手打ち。ただ落下させるだけで一本になりえる、上段特有の必殺技。


 だが、俺は感じ取った。おまえの心が一瞬だけ乱れるのを。

 怯えたな。俺の覚悟に。俺が宿す二人の魂に、おまえの心が悲鳴を上げたんだ。


 小手は餌。おまえの構えを崩すための、魂を懸けた幻影だ。

 ガッ……! と竹刀が打突を打ち消す。千虎の小手打ちが無効化され、面がさらけ出される。


 必殺の相小手面。これで──獲る。


「魁星旗を獲った技やろ、見てへんとでも思ったか?」


 されど、俺は頭から抜け落ちていた。


 千虎の本当の脅威は成長力。昨日よりも今日、今日より明日、ひと月も経てば間合いも伸びるという、底なしの成長こそがコイツを天才たらしめている所以だと。


「なっ──」

「うそ、一度死んだ打突を……」 


 結と奏ちゃんの悲鳴と、千虎の左手首の軋む音が重なった。


「メェアアアアアアアッッ!」


 片手による二連撃。リカバリーが困難という上段の常識を覆すような、唯一無二の大技。

 手首の力だけで、弾かれた竹刀をもう一度打ち抜いてくる。


 どうする。回避か。一瞬だけ浮かんだ選択肢。ここから面を打っても五分かそれ以下。

 攻撃を止めて体当たりするように逃げるのが最善──……、


「せんせーっ! 勝ってぇッッ!」

「剣晴さんッ! 負けないでッッ!」


 俺の思考を上書きするように、可愛い弟子二人の叫び声が聞こえた。





 心が、白線という境界を超えて届けられた。

 あの決勝とは違う。俺は──俺も、孤独じゃない。





 瞬間、俺の魂が燃え上がった。視界が炎に包まれる。

 そうだ。俺はあの子たちの師匠。剣を教え、導く立場なんだ。

 逃げるだなんて情けない姿、見せてんじゃねぇ気合い入れろッッ!


「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」


 追い上げる。片手の二連撃という規格外の技でも、一度は威力を殺された技。上段に構えて振り下ろすより威力も速度も落ちている。


 剣で示せと言われたのなら、文字通り示してやろうじゃねぇか。

 俺たちが作ったつながりは天すら穿つのだということを!


「なっ──」


 千虎の打突が、不思議な芯を得た俺の打突に弾かれる。

 面斬り落とし面。速度とタイミングと精度が噛み合わなければ成立しない現代剣道の奥義。


 二人に後押しされ、俺は必殺の相小手面をこの土壇場で進化させる。

 そしてそのまま──『天照』という神を斬り伏せた。


「面アリィッッ!」


 会場が歓声で割れるかと思った。それほどまでに俺が天に刃を届かせたことが衝撃だったのだろう。それもそうだ。三年間を通して、コイツが一本を取られたことなど一度もない。


「どうだ千虎ァ……剣で示してやったぜ、おまえの言う通りな」

「……ッ」


 ──コイツは、剣道で負けたことがない。

 勝敗の差が微妙である武道ではそれは紛れもなく異常なことだった。

 もしも、もしもの話だ。コイツは今まで負けたことがないだけじゃなくて、一本すら取られたこともなかったのなら。


 千虎は今、取ろうとして取れなかった。勝負を挑んで……負けた。

 俺たちにとっては日常茶飯事だ。だが、これまであまりにも綺麗な無敗街道を突き進んできた千虎 刀治という剣士にとっては、生まれて初めての──。


「ありえへん……、ありえへんぞ……ワイがおどれより劣っとるモンなんぞないわッ!」


「どうだろうな。おまえは独りで全国を獲れるくらい強いかもしれねぇけど、その強さに誰かが寄り添ってくれたことはあるかよ」


「あァ……?」


「おまえは独りだからこそ、俺より劣ってるモノを理解できねぇんだよ」


 剣が生む人とのつながり。コイツは決してそれを理解できない。

 人を見下す傲慢な神であり続ける限り、コイツに俺たちの強さが分かるはずない。


「黙れや……」


 『天照』から漆黒の覇気が滲み出る。奏ちゃんも似たような覇気を持っていた。

 その正体はおそらく、心の闇。拭いたくても拭えない、剣に潜む冥き心──。


「黙れや雑魚がァッッ!」


 勝負。互いに一本を奪った際に突入する最後の戦いだ。

 試合時間はまだある。延長は考えない。ここで一気にねじ伏せる──と意気込んだ俺の勢いを、千虎が圧倒的な力で迎え撃つ。


「何がつながりやッ! 見えへんモンになんの期待しとんねん! 神にでも祈ったか! そんなまぐれでワイを超えたとか思うなやァっ!」


 容赦なく蹂躙しにかかる暴力。

 周囲の審判や記者たちも、怯え、頬を引きつらせているのが目に入る。


 撒き散らされる千虎の怒りに、この道場の全員が心の底から恐怖していた。

 千虎 刀治は最強。それ故に抱えていたのは──敗北という名の忍び寄る陰。


 常にコイツの心の裏側には、負けたくないという恐怖心があったんだ。プレッシャーとも言い換えられる。当然か。コイツは『天照』と言われようが、所詮は十八の高校生。


 一人の人間なのだから。


 無敗街道を驀進ばくしんすればするほど、影は大きくなって手を伸ばしてくる。

 必死だったんだ。捕まらないように。自分は最強であるという柱が折れないように。コイツがああも冷酷な思考であったのは、負けという気持ちを限りなく考えないようにするためか。


「なんだよ……おまえも結局人間だったんじゃねぇか!」


 負けが怖いのは、誰だって同じだから。

 迫り来る暴力の乱舞。嵐が竹刀を振り回す中、俺は極限まで目を凝らして皮一枚で防いでいく。上だと思ったら下。左だと思ったら右。高校生離れした身体能力から繰り出される縦横無尽の打突は、俺に瞬きすら許さない。


「あ、ああああああああああああああああッッ!」


 凌げ。堪えろ。こんな出鱈目な無酸素運動がいつまでも続くはずがない。


 コイツは俺たちと同じ人間なんだ。


 周囲が天才と突き放して切り離してしまったからこそ……コイツは特別にならざるを得なかった。不幸なことに、それが千虎にとっても心地良くなってしまった。


 誰かが負かしてくれたなら。誰かが理解してくれたなら。

 きっと千虎は、背負い続けた看板の重みに怯えることはなかったはずなのに。


「俺のせいでも、あるわな……ッ」


 コイツと一番長くいて、一度も勝てなかったから。

 千虎 刀治は人間であることを、伝えることができなかったから──。


「もう逃がさねぇぞ、千虎ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」


 暴風には暴風を。乱打には乱打を。互いの胸倉を掴み合い、一切の防御を捨てて殴り合う。

 魂を剥き出しにして、どっちが強いかの意地を張る。


 有効部位を外し、互いに痣を作る。出血する。体がぶつかるたびに、床に血が付いた。

 それでも俺たちは止まらない。荒い呼吸しか聞こえない。バイクを全速力フルスロットルにし、ノンブレーキで駆け抜けているような感覚。面金から入り込む空気に網膜が渇く。


 ああ、まるで子どもの喧嘩だ。昔、さんざんやったっけな、懐かしいよ。

 あの頃からムカつくヤツだったけど、妹を悲しませるとかいよいよ最低だぞ。試合終わったら奏ちゃんに謝れよこの野郎。


 その後は任せろ。結っていう友達と俺が、奏ちゃんを見続けるから。

 心の成長を果たした結なら、きっと、いいライバルになれるから──。


「「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」」


 距離が詰まる。最後の邂逅が訪れる。

 駆け引きなぞ頭にない。ただ渾身を、全霊を、この一撃に込めるだけ。


「──テェェアッッ!」


 無拍子の小手。予備動作を完全に消した究極の一撃が、俺の右手に吸い込まれていく。

 神経が焼ける。無理な稼働に黒煙を噴いた。それでも限界を振り切って反応する。


 全細胞、全機能を費やして致命傷を避ける。

 目を逸らすな。閉じるな逃げるな立ち向かえ。ここで天を超越しろ。


「──……ッ」


 パァンッッ! と俺の右手に炸裂する必殺の一撃。

 されど──拳だ。小数点以下の領域で俺の反射が間に合った。一本じゃない。千虎の目が見開かれるのが分かった。手応えから一本ではないと理解したんだ。


「ッだらぁあああああああああああああああああああああッッ!」


 刹那で繰り広げられた命のやり取りを凌ぎ切り、決定打を叩き込む!

 天に居座る神を斬り落とし、地へと落下させる。

 完全なる一本だ。これ以上ない極上の一撃。

 赤い旗が上がる。楓先生が俺に上げた。勝った──。


「…………え?」





 されど、残り二人は白に上げていた。





 審判三人のうち、二人上げた方の一本になる。そこに主審と副審の差はない。たとえ主審が赤を上げていようが、残り二人が白を上げていたら主審も赤に上げ直さなければならない。


「…………」


 楓先生が目を伏せて、白に上げ直した。


『んー、今回の審判、やたらと音を重視しよるな。打突が上手く当たってても音がそう聞こえんかったら上げんタイプか』


 千虎が結と奏ちゃんとの戦いで言っていた言葉を思い出す。つまりそれは、裏を返せば。

 上手く当たっていなくても、音がそれらしければ一本と見做してしまうということで。


「小手ありッ! 勝負ありッッ!」


 無情にも告げられた試合終了の合図。


「ウソ、だろ……」


 審判の判定に逆らうことは、剣道において決してあってはならない。

 なぜなら、剣道は勝敗よりも重視している理念があるから。

 だけど、だけど、とはいえ、分かっているけど、それでも──……。


「そんなのって、ねぇよ……おい」


 受け入れられない。怒りに近い、遣る瀬無い感情に口が戦慄いた。



 俺は、負けた。




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