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第38話:敗北を知っているか

 ファーストコンタクト──……、


 千虎は竹刀を上段に構える。握りは左手が柄頭で、右手は鍔元。基本的に手の位置は中段と共通だ。上段の構えは手元を額の少し上あたりに持ってくる。


 その位置はつまり、中段における『竹刀を振りかぶっている状態』とほぼ同じになる。

 中段の打突はどれだけ早くても『振りかぶって、振り下ろす』という二段階の動きを必ず行っている。しかし、上段はその過程を一つ省略しているのだ。


 さらに上段は左腕の片手打ちになるため、右足が前になる中段とは足が逆になる。半身にしてより遠くに打突を届かせるためだ。故に、俺が後手を踏むのは必然。問題はその一撃目を捌いた後でどうするか──、





 という俺の思考は、

 突如降り注いだ落雷によって消滅した。





「ジィアラァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」


 脳天で爆発する雷撃。一瞬で視界が真っ白に塗りつぶされた。

 踵まで衝撃が駆け抜け、俺の全身が麻痺する。

 まさに稲妻。天空から振り落とされる一撃に、なす術もなく吹き飛ばされた。


「がっ──……」


 面を打ち抜かれたと気付いたのは、千虎の残心が俺に直撃した後だった。


「面アリィッ!」


 躊躇なく上げられる三本の白旗。会場から今日一番の歓声が湧く。


「ああっ……せんせー……ッ」

「速すぎる……技の起こりが見えなかった」

「あのバカモンがぁ……ッ! あれほど初太刀には気を付けろと言ったのに……ッ」


 結と奏ちゃん、そして佐々木までもが衝撃で目を見開いていた。

 速い──だけじゃない。今開始戦から一歩も出てなかっただろうが。構えたその場から、俺の脳天に打突を届かせたというのか。


 どんなバネしてやがる。全身の瞬発力、完璧な体重移動、その巨体で俺かそれ以上のスピードを以って斬りに来やがった。この前の決勝ではこんなに間合いは広くなかったはず。


「クソ……道理で佐々木が瞬殺されるワケだ」


 俺より小さい佐々木が、ヤツの間合いの広さを前に取れる手段などそう無いだろう。さらには速度でも上回られたら、マジのマジで詰んでいる。


「おう、なんや。偉そうな口叩いた割にはその程度かいな」


 コイツ、この一ヵ月でさらに強くなってやがるのか。そう言えば忘れていた。千虎 刀治は天才。その真骨頂は成長の早さ。剣道を初めてわずか一年で全国大会を制するくらいだ。


 俺が一ヵ月で得られる経験値と、コイツの一ヵ月で得る経験値は文字通り桁が違う。


「黙ってろ……たかが一本で調子乗ってんじゃねぇよ」


 だけど、見たぞ。そこがおまえの間合いだな。俺の中に蓄積している千虎の情報を更新する。


「二本目ッ!」


 ボッッ! と再び超広範囲から落雷を飛ばしてくる。

 起こりが見づらい。だが、それはコイツの身長が百九十六と規格外の大きさを誇っているからだ。些細な動きの感度が鈍るのは当然。踏まえた上で感知するしかないが、


「く、ぅ……ッ!」


 そんな人間の足掻きなど嘲笑うように、千虎という化物は猛攻を振りかざす。

 打突がほとんど見えない。微かに腕の残像が視界に映る。急激に消失したと錯覚するようなキレに瞬きすら許されない。


「おるぁああああッッ!」


 圧倒的な力。暴力的な速度。俺が積み上げてきた努力を嘲笑うような天賦の才。


 これが千虎 刀治の上段。稲妻と紛うような一撃を仮借なく、連続で放ってくる。

 まさに天災。人間では敵うどころか、まともな太刀打ちだって望めないだろう。


「この……相変わらず、ムカつくなァ……ッ」


 肩に当たれば半身が麻痺し、腕に当たれば感覚が消える。

自分が呼吸できているのかどうかすらも分からない。もはや死んでいるんじゃないか。そう本気で思うくらいには生きた心地がしなかった。


 一撃が心にまで突き刺さり、闘争心を根こそぎ奪って跡形も残さない。

 徹底して絶望を刻み込み、力の差を見せつける。コイツが今まで積み上げた屍は数知れず。


「くそ、が────ッ」


 千虎は炭も残さないと言わんばかりに火力を上げてくる。受ける竹刀が割れる。粉塵が舞ったかもしれない。確認する余裕など微塵もなかった。


「そこッ!」


 微かに見えた切っ先。軌道を読む。0.1秒後に襲来する死を直視する。

 見切った。鎬で受け流す。面に掠るかどうかのところを千虎の竹刀がすり抜ける。

 上段における最大の弱点を穿ちにかかる。


 ──上段は利点だけではない。


「チッ──」


 千虎の反応がワンテンポ遅れる。返しで打突を繰り出す俺に対し、今度は千虎が後手に回った。竹刀の重さに振り回されているような感じだ。


 これが上段の最大の欠点。一度打突をしたらリカバリーが難しい。より遠くに竹刀を振ろうとしたら左腕一本になる。全力で振り下ろした竹刀を片腕で引き戻すのは容易ではない。


「せんせーが貼り付いた」

「兄さんの間合いは広すぎるから、台風の目に飛び込むしかない」


 一歩間違えれば暴風圏内。分かっている。百も承知だ。しかし、だからと言って逃げ腰になっては嬲り殺しにされるだけ。あの落雷のような一撃は何度も避けられるものではない。


 間合いを取られて狙い打たれるなら、俺にも分のある間合いで打ち合ってやる。

 ガチ、と鍔が擦れ合う。眼光がそれ以上に鎬を削り合い、火花を散らせた。


 千虎の呼吸を感じ取った。長い。肺の隅々まで空気を送って活力に変換していた。


「フッ!」


 何かを仕掛けてくる、そう感じた時には千虎の巨躯に弾かれた。鍔迫り合いが解かれる。ちょうど互いに、竹刀を振り下ろせば面に届く致死範囲──……。


 歯を浮かべる千虎が見えた。

 かかって来いや。そんな幻聴が聞こえてきた。


 いや、幻ではないのだろう。コイツは今──俺に喧嘩を売ってきた。

 いいぜ、やってやる。後悔すんなよクソ野郎。


 ──そして、瞬きが死に直結する乱打戦が幕を開けた。


 千虎の面打ち。竹刀の根元で受け、面打ちを返す。

 打った直後に一本ではないと察した千虎は竹刀を横に構え、返しで打たれる面打ちを防ぐ。

 俺の打突も無力化される。構えを下ろす──その隙。竹刀が縦に戻る瞬間を狙った千虎が右小手打ちを放ってくる。


「くぉ……ッ」


 僅かに竹刀を逸らして鍔で受ける。外に弾かれた千虎の竹刀。面ががら空きだ。

 千虎も分かっている。故に単発では終わらせない。小手面の二連打。


 小手打ちは小手を狙ったわけではなく、戻されようとする竹刀を迎撃するためだ。

 かっ、と千虎が刮目する。小手打ちの防御は捨て、次に被弾する面打ちの防御に特化する。


 受けられる。そのまま右へ入れ替えるように体を捌き、打突直後の隙が大きい側面から俺の左側面を狙う。しかし、読めてはいる。受けて反撃──。


 面打ちで上がった千虎の手元。小手の注意が散漫となる。

 上がった右手を斬り落とす。だが、その打突をつぶすために千虎も打突を繰り出す。


「ぬんっ!」

「どぅあッ!」


 小手面二連打の同時打ち。譲らない。俺が一本を誇示するようにその場で残心を取るのに対して、千虎は後ろへ飛びながら残心を取る。逃がすか。テメェの間合いじゃやらせねぇ。


 残心を中断し、退がる千虎を追う。

 一歩足を捌くたびに勢いが乗る。上から押しつぶされる以上、相打ち以下は俺の負け。タイミングは構える瞬間。体重が後退から前進に切り替わるその一瞬。


 ──殺る!


 ぐん、と脹脛ふくらはぎに血管の浮かぶ感覚がした。足から腰にまで力が伝わり、延髄にまで膂力が加算される。俺の力だけじゃない。可愛い弟子二人から込められた思いが俺の背を押す。


「ええ度胸やボケ」


 千虎の脅威はこれまでに散々刻まれていた。故に微細な動きさえも逃さないと目を凝らしていたのだが、それが罠だった。反応してくると踏んでいたからこそ仕掛けられた、僅かな誘い。


 小手が突き出される。スローモーションのように見える動きはされど途中で止められる。


「……ッ!」


 俺の小手打ちが空を切る。過剰になりすぎた反応は逆に利用され──、


「メェェアッッ!」


 小手打ちという動作を挟んだため、振り下ろすだけの千虎の方が早い。

 ギ、と歯を食いしばる。脹脛が悲鳴を上げた。想定した着地点よりも奥に踏み込め。


 あえて爆心地に飛び込むような覚悟で致死範囲から逃れる。脳天を砕きにかかった一撃は元打ちとなり、辛うじて一本を避けた。


「チッ──」

「ぐッ……」


 鍔迫り合い。頭蓋骨にまで響く鈍痛に顔が歪む。しかし、それでも俺は千虎の目を見続ける。


 ──……禍々しい星のようだ。『天照』と称されたコイツは、誰の手も届かない唯一無二の高みで、独りであり続けた。


 だが、コイツは独りであることこそが強みだった。

 天上天下、唯我独尊。世に並び立つ者は無し。コイツの考えは誰にも共感されないものだろう。才能無き弱者は去れと、心を折る剣で幾百の屍を積み上げてきた。


 テメェに負けて剣を置いた人間が何人いる?


「千虎ァ……おまえが孤高にいるのは認めるよ……でも、全てをねじ伏せて、天下一になったところで、おまえの隣には誰がいるってんだ」

「おるワケないやろ。全てはワイの下に平伏すだけや。それが頂点。並ぶ者の存在しない最強たる称号や。なんでワイが『天照』言われとるか──分かっとるやろ」


 誰もが憧れて手を伸ばすが、決して近付けない。

 もしも近付けば、無慈悲な光線に焼き殺される。


 千虎に剣を向けるとは即ちそういうことだ。誰も手の届かない範囲から、目を疑うような高速の打突を繰り出して蹂躙する。圧倒的な力と速度を見せつけられ、誰もが諦めてしまう。


「その目を、妹にも向けたのかよ」


「関係あらへん。最強であれば全てが正しい。ワイの剣は全てが正義や。奏も剣の道に踏み込んだのなら……ワイを倒せへん限り、ワイの法に従うしかないんや」


「そうやって強さしか見てねぇから、奏ちゃんはおまえから逃げたんだろうが……ッ」


「ああ、逃げたんや。奏はワイから逃げた。ワイの光に一番近いから、眩しい言うて見てられんかった。そうやって目を眩ませた先には──逃げ続けるだけの人生しかあらへん」


「そんなテメェの理屈で、人生語ってんじゃねぇッ!」


 ゴッッ! と巨躯を押し返すつもりで体当たりを繰り出す。僅かによろけた千虎の体重を感知する。右足が浮いた。左足に全体重が乗る。体の軸は動かせまいッ!


「メ、ドォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」


 面に振り下ろして手元を浮かせる。すかさず胴へと軌道を切り替えるが、千虎はそもそも面の動きに反応していない。最初から胴打ちに変化すると見抜いていたかのようだ。


 竹刀で打ち落とされる。手元が下がる。頭が剥き出しになる──。


「ほら小細工しよる。今のは結ちゃんも使った変化やろ? 真正面から挑みゃええのによ!」


 ゴパァンッ! と肩で受けたような音とは思えない炸裂音。


「ぎ、ぃ──……ッ」


 重い。今まで受けたどの打突よりも重い。この打突にはコイツの揺るぎない信念が宿っていた。冷酷で、冷徹で、触れれば誰もが傷付く鋼の心。雑魚は退け。弱者は消えろ。無能で無価値な人間がワイの邪魔をするな──そんな声が聞こえてきそうだった。


 歩み続けた覇道。自分を全肯定するために、コイツは全てを蹂躙した。誰も手の届かない才能を振りかざし、千虎 刀治は孤高であり続けた──。


「群れるからそうなるんや。最初から独りなら、失うものなんてありゃせんのによ」


 白線の内側に持ち込めるものは、自分と竹刀だけ。


 コイツはそう言った。期待や応援、そして思いといった形無いものを無意味と言う。

 誰の心も持ち込まないコイツは、それでも最強だった。


「そう、かもな……試合をするのは常に一人。なら、自分が、自分だけが最強であればいい。その覇道を追求すれば、そりゃあ孤高にもなるか……」


 ──昔から、どうしてもコイツの存在が理解できなかった。


 天才だ、化物だ。そうやって褒め称える心の裏側には、あなたと私では住んでいる世界が違うんだよという真意が隠されている。


 突き放している。


 そうやって遠ざければ、自分の世界は壊されないから。コイツと戦った百人が百人ともコイツを遠ざけて、『千虎 刀治』という世界は孤立した。


 それでも千虎は勝ち続けるしかなかった。

 最強の証明。それだけが、千虎の剣を握る意味だったから。


「けどよ、おまえは一番近い家族だって見放した……」


 奏ちゃんにも同じ価値観を押し付け、あの子は傷を抱えて逃げてきた。


「おまえに見てほしかった奏ちゃんは、おまえとは違う道を歩み始めたぞ……」


 秋嶺 結。心を成長させた俺の弟子が、氷に閉ざされた奏ちゃんの心を溶かし、手を取った。


「剣を通して二人はつながったんだ。その成果すらもおまえは無駄だと斬り捨てるのか」


「それでも結局奏は負けた。それが全てとちゃうんかい。いくらきれいごとを並べたところで、結果は結果。結ちゃんが勝って奏が負けた。それだけやろ」


「勝敗以上に、二人は大事な物を手に入れたんだよッ! その意味が分かんねぇか!」


 話は交わらない。千虎は千虎。コイツの鋼で編まれた哲学が揺らぐことはない。

 言葉じゃ通じない。対話は成立しない。悲しいが──今のコイツとはつながれない。


 俺たち三人と千虎には、決定的に違う部分がある。




 敗北を知っているかどうか。




 だから、なぁ。おまえは剣で示せと言った。ならやってやろうじゃねぇか。

 おまえの冷たい心──俺が叩き斬ってやる。

 弟子が妹の心を溶かしたように、俺もおまえに人間ってものを教えてやる。


 人間は独りじゃ生きられねぇんだよ。

 つながってなきゃ、一秒だって生きていけない生き物なんだよ。


 俺が思い描く剣は……剣を切り結び、剣戟を奏でることで生まれる相互理解。

 結と奏ちゃんと、三人で描いたつながりの剣だ。

 その剣の切れ味を、今、見せてやる。



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