「せんせーっ! ゆいやったよ────────ッ!」
猫が飼い主に飛びかかるように、結がノンブレーキで突っ込んでくる。過去最高の威力だ。多分胴を着けてなければ内臓の一つや二つ破裂していたかもしれない。
「ごぶぅっ……! お、おぉ……見てたぞ、ナイスファイトだった、結」
「やったぁ~、やったぁやったぁッ! うぇぇ~~~~~ん……」
あまりの興奮で結が泣き出してしまった。こういう手合いは下手に話しかけるより「よしよし」する方が良いだろう。胴が涙と鼻水でびしょ濡れになりそうだが、仕方ない。
「…………剣晴、さん……」
俺と結から少し離れた位置で、奏ちゃんが憑き物の落ちたような顔で立っていた。頬が上気し、息は微かに荒い。足取りもどこか不安定だった。
「奏ちゃん……」
「あの、私、……もう」
「いいんだよ」
「──……え」
何を言おうとしていたかは問わない。俺の元から去ろうとしていたとしても、言わせない。
「それでいい。逃げたくなったら逃げればいいし、弱音も本音も言いたくなったら言えばいい」
心をさらけ出す場所が、この子には何よりも必要だったから。
「結を見てみろよ。この子は自分の本心を隠そうともしないぜ。ワガママで、自己中で、思い通りにいかないと喚く困った子だ」
「え、せんせーそんな風に思ってたの!」
尻尾と耳がビン、と伸びあがって驚く結。
「でも、成長した。君を思うことで、結は成長した」
奏ちゃんとお友達になりたい。そう強く思うことで結は奏ちゃんの心に、人の心に寄り添うことを覚えた。そして手を取って、心まで抱き締めることで──勝利した。
「君は決して人の心を思えないワケじゃない。ただ、場所と時間が必要なだけだった」
だから、俺を……結を、自分の居場所として使えばいい。
「俺たちがいる。俺と結が君とつながり続ける。見続ける。だから、君はもう独りじゃない」
「…………ッ」
くしゃり、と奏ちゃんの顔が歪む。
「むしろ、俺の方こそ君に礼が言いたい。結に気付かせてくれてありがとう。俺を肯定し……自信を抱かせてくれてありがとう。本当に──ありがとう」
「いえ、いえ……そんなことないです。剣晴さんは、『剣聖』さんは……初めて見た時から、カッコよかったから……私なんかが、そんな……烏滸がましいです」
ぼろり、と奏ちゃんの両目から堰き止められなくなった感情が零れる。
「私が結ちゃんに負けるのは、当然でした。あの日、あの決勝の後、私は剣晴さんに直接声を掛ける勇気はなかった……でも、結ちゃんは──」
ああ。よく覚えてる。突撃してきて、俺に剣を教えてくれと言ってきた。
あの懸命に言葉を絞り出す姿は、一生忘れないだろう。
「かなちゃん、ゆい、自分のことしか考えてなかったからだと思うよ……」
「俺もそう思う。気持ちの赴くまま、心の向くまま、素直に気持ちをさらけ出す……奏ちゃんにこれから必要なのは、俺や結にワガママを言う稽古だな」
冗談めかして笑って見せる。良い子過ぎたこの子は、もっと俺や周りを振り回していい。
悔しいけど、それをどこか楽しいと思えてしまう自分も……いたから。
奏ちゃんは、俺の元から去らなくていい。
「ふ、ぅ……ぅえぇええ~……」
だだだ、と駆け寄って来て、俺の右腕の袖で泣いてしまう奏ちゃん。
左腕に結。右腕に奏ちゃん。身動きの取れない状況でちょっとだけ困っていると……、
「『剣聖』が女子小学生二人を侍らせた上に泣かせてる……」
「え、『剣聖』ってロリコンだったの?」
「え? ロリコン? マジで?」
「ロリコン……」
「ロリコン……」
「ロリコン……」
背中から軽蔑の目線が突き刺さるゥ!
周囲の人と目を合わせたくなくて明後日の方向を見ると、
「おい、雨宮ッ! 決勝だろう、儂がアドバイスを──って、何を戯れておる」
佐々木がいた。どっから出て来たおまえ。
「アドバイス? ってかおまえ、千虎に瞬殺されちまったな」
「……不甲斐なし。笑うなら笑うがいい」
「千虎のヤバさを一番分かってるのは俺だ。アイツならやりかねないって思ったら笑えねぇよ」
「……それでもだ。雨宮、ヤツの初太刀には気を付けろよ」
心当たりはある。上段に構えた千虎の間合いは中段を遥かに超えている。広い間合いから稲妻のような一撃を繰り出すことで、相手の心を委縮させる──アイツがよくやる手だ。
「アレを受けてしまったら、それだけで体が怯えてしまうぞ」
「ああ。分かってる……ありがとな」
コイツもコイツで、全国決勝で負けた俺を気にかけてくれているワケだ。
「ふ、ふんっ! 別にヌシのためではないわっ! 勘違いするなっ!」
なんでそこでツンデレ出すんだおまえ。似合わねぇからマジでやめろ。
と、やり取りをしている時だった。
「やっと終わったか。は、やっぱ奏負けてるやん。順当すぎておもんないわ」
試合場の扉を開けたところで、十分に汗をかいた千虎がいた。
「──千虎」
頭に血が上り、一言物申してやろうかと思ったが、今はその時じゃないと冷静になる。
ヤツがあの喧嘩で言ったことだ。言いたいことがあるなら剣で示せ。言葉も心も──すべては白線の内側でぶちまければいい。
だから今は留めておく。あの野郎をぶっ飛ばす力として。
「せんせー……」
眉間に力を入れていると、結が俺の左袖から顔を上げて言ってきた。
どうした、と尋ねると、結は握る力を一層強くして。
「千虎さんをぶっ飛ばしてください」
「ああ。任せとけ」
弟子が素晴らしい姿を見せたのだから、次は師匠である俺の番だ。
中学生の決勝が終わるのとほぼ同時、俺は二人の背を軽く叩きながら立ち上がった。
言ってくると告げて、俺は戦場へ向かう。
「せんせー……ッ」
「剣晴、さん……」
二人の視線を背中に感じながら、俺は千虎と相対した。
──誰もが憧れる武道館。まさかこんな形で床を踏むとは思わなかった。
ヒノキの香りが鼻を擽る。程よく滑りそうな感触が足に馴染む。観客席から聞こえるざわついた声が、面の中で反響してどこか遠くに聞こえる。
もうここまで来たら何も考える必要はない。試合場をこれでもかと照らす明かりが肌を焼くのを感じながら、俺は全日本選手権さながら頂点を競い合う。大会は非公式ながらも、全国の一位と二位の戦いだ。観客の期待が膨らんでいくのが分かった。
「おう剣晴。体はちゃんと暖まっとるやろな?」
「テメェが試合場に入ってくる前から完璧だわ」
白線の向こう側で神が嗤う。人間でしかない凡才を嘲るように。
相手は『天照』。人の住む地上を照らす、唯一無二の頂点。
誰かが言った。人間が再び神へ挑む──と。
審判は主審が楓先生に変わっていた。先生の合図で俺たちは試合場へ入る。
「テメェを人として見ねぇよ。あるべき心のねぇテメェは、ただのバケモノだ」
「それは脳が死んどる証拠や。思考の放棄。天才はいちいち考えるまでもあらへんが、凡人が考えるのを止めたらただの獣に成り下がるで」
そもそもの格が違う。千虎はそう断言して仁王立ちになる。
上等。最初から俺は格下だ。天に向かって剣を振り回すちっぽけな存在にすぎない。
死に物狂いで頑張っても、せいぜい切株を一つ重ねるくらいしか成長しない。
それでも──積み重ねれば。いつか天に届く。
「知ってるか? 強すぎる陽射しに目を向けるヤツはいねぇんだぜ」
「いらんわ。有象無象が蔓延っとるだけでイラつくっちゅーねん」
どこまでも平行線。天才と凡才の考えは決して交わらない。
でも、ここだけは違う。この白線の内側だけは、互いの魂が交錯する空間だ。
ぶつけてやる。俺たち三人が作ってきたつながりの力を。
たった独りでしかないおまえに、断ち切れる糸じゃねぇぞ。
礼。三歩入って、抜刀。蹲踞をして一秒。呼吸を合わせる。
「行くぞ
「来いや
楓先生が一つ息を吸う。空気が張り詰める。カメラのシャッターの切られる音がした。
「剣晴さん……」
奏ちゃんの不安そうな声がする。
「せんせー……頑張れッ」
結の必死に願う声が聞こえてくる。
会場にいる観客は千虎の勝利を望んでいるだろう。さながら俺は悪役だった。
だけど、悪いがアンタらの思い通りにはならない。俺の勝利を願ってくれている子が二人いるから。悪役上等だ。アンタらのヒーローをぶっ倒してやるよ。
俺は、あの子たちにとってのヒーローであればいい。
「──始めッッ!」
「ぜぁああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」
「ッラぁあああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」
人が神に挑む。
そんな戦いが、幕を開けた。