目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第36話:剣のつながりが生み出す輪

 行かないで。そう叫ぶ代わりに放った咆哮が、会場の空気を蹂躙した。

 漆黒が迸る。飛び出そうとした結を押しつぶすように──。


「うッッ」


 結の身体能力すら上回る勢いで、奏ちゃんの打突が炸裂する。

 だが、その打突はどこか荒々しく、まるで癇癪を起こした子どもが親を叩くようだった。


「奏、ちゃん……ッ」

「どうして……どうして兄さんは……ッ! こんなに頑張って食らいついているのに!」


 相手の心を読み切って放つ、返し技に特化した姿とは真逆。まるで結の機動性をそのまま模倣したかのような動きで、奏ちゃんが結を弾き飛ばす。


 奏ちゃんがこれほどまで動けるとは。身体能力では結より劣ると見ていたが。


「あなたは天才だから……すべてが劣等に見えるのかもしれないけれど!」


 ドドォンッ! と小手面の二連撃が結を襲う。結は打突の衝撃で竹刀の操作を封じられるが、持ち前の動体視力で辛うじて回避した。しかし、それでも肩への被弾は避けられない。


 痛みに結の表情が歪む。それは体の痛みか、それとも心か。


「私、はァ──ッ」

「奏ちゃんッッ!」


 再び鍔迫り合いが起こる。だが、流れが停滞することはなく、奏ちゃんが即座に結の体を右側へ弾く。入れ替わるように足を捌き、がら空きの小手へ──、


「小手ェッッ!」


 ピシィッ! とまるで鞭が打ち付けられたかのような鋭い音。

 しかし、当たったのは剣先。奏ちゃんの膂力が強すぎて、結の小さな体を竹刀の間合い以上に吹き飛ばしてしまったんだ。


 戦闘スタイルを変えたにしてはあまりに馴染んでいる。


「そうか……奏ちゃんはこれまで『良い子』だったから……」


 相手の心に寄り添うような、探るような剣を振ってきた。だが、これは違う。蹂躙し、蹴散らし、有無を言わさず叩きつぶす。心を折る暴風の剣。これは──、


「……やっぱり、どうしても妹ってことか」


 『天照』千虎 刀治の得意とする剣風だ。

 『良い子』という皮を剥がした剣戟は、見る者を怯えさせる恐怖の具現だった。


「で、もッ!」


 迫り来る黒き覇気を見据え、それでも結は剣を構える。


「奏ちゃん、ゆいたちが見てるよッ!」


 振り上げられる瞬間を狙い、下から剣を弾いて小手を狙い打つ。しかし、結と互角の速度で足を捌く奏ちゃんの拳に命中し、一本にならない。


「千虎さんが見てなくても、ゆいたちが奏ちゃんを見てる!」


 至近距離。面金が擦れて火花が散る。竹刀同士が激しくぶつかって焦げた匂いを放ち始めた。結が怒涛の中で奏ちゃんに手を伸ばしている。決して折れず、目を開いて。


「ゆいは……奏ちゃんと友達になる……ッ。せんせーが言ったからってだけじゃない。あの時に奏ちゃんが手を差し伸べてくれたから、ゆいはッ!」


 結が押し返した。奏ちゃんの体勢が僅かに仰け反る。

 試合場の外で時計係が時間を気にし始めた。おそらくは残り三十秒を切っている。このまま延長戦の可能性もある。


 奏ちゃんの猛攻を結はよく凌いでいるが、消耗戦を強いられると勝ち目はない。

 それでも、結は自分に纏わりつく闇を斬り払う。


 自己中心的で、ワガママで、人の気持ちを考えられなかった結が、今。

 奏ちゃんという好敵手と友達になるために、つながりを作るために、手を伸ばす──。


「あの時のお礼を、今返すよッ!」


 飛び出しは同時。互いの面打ちが食い合い、削り合い、そして……弾けた。

 ついに、奏ちゃんの残心を取り切る膂力が結を上回った。


「ぐっ──」


 転倒を避けようとするが、結の片足が試合場の外に出る。


「止めッ!」


 審判の合図が掛かり、結の反則一回を告げられる。

 反則は多種あるが、代表的なのは試合場の外に出ることと、竹刀を落とすこと。反則二回で相手の一本となる。体当たりで押し出したりすることも戦略の一つだ。奏ちゃんがかつて稽古中に見せた巻き技も、達人が使えば竹刀を両手から引き剝がす技にもなりえる。


 試合時間が残り短い中、この反則は重くかかるだろう。もう一度外に追いやられるか、竹刀を落としでもしたら結の敗北は濃厚になる。


「嫌……兄さん、私に失望しないで……私はここにいる。見て、見てよ……」


 もはや奏ちゃんは普通の精神状態ではない。止めるべきなのだろうが、そんな権利は俺にはない。あまりの歯痒さに腸が捩れそうだ。


 千虎の姿はもう試合場にない。そのせいで無残にも引き裂かれた奏ちゃんの心が、あの子の中にあった『良い子』としての仮面を砕いてしまったんだ。


「兄さん、どこにいるの……?」


 痛々しすぎる。心を向けられることを切に望み、自分を見てもらうことを渇望した少女の心が崩れていく。俺は何もできないのか。子どもの心が闇に塗りつぶされようとしているのに。


「奏ちゃんッッ!」


 瞬間、そんな俺の心に喝を入れるように、結が叫んだ。


「ゆいがここにいるよ。奏ちゃんの正面で……奏ちゃんを見てる」

「え、あ、ぁ……」

「ゆいには兄弟とかいないから……奏ちゃんの気持ちを分かってあげることはできないかもしれない。でも……誰にも見てもらえず寂しい気持ちになるのは、分かるから……」


 結は天涯孤独の身だ。俺と出会う前の一年間、この子は誰もいない冷たい家で過ごしていた。

 誰も助けてくれない、守ってくれない孤独の中にいたからこそ……結は。


 奏ちゃんに歩み寄る。心に触れることができる。


「せんせーだっている。ごめんね、ゆい聞いてたんだ……起きてたの。あの夜、奏ちゃんがせんせーにお願いするところ。見ていてほしいってお願いするところを」


 奏ちゃんが俺に見せた透明な心。奏ちゃんの本心にして、本当の願い。


「最初は、嫌だった。せんせーが取られちゃうんじゃないかって。ゆいが負けたらせんせーが、せんせーもいなくなっちゃうんじゃないかって。だから怖くて……奏ちゃんを遠ざけた」


 でも、奏ちゃんは俺を独占するつもりはないと言った。そうだ。奏ちゃんは俺から指導を受けたいと願い出たんだ。奪いたいと言っていたのではない。


 奏ちゃんの意志を知ったからこそ、結は奏ちゃんの手を取った。

 友達になりたいと、思うようになったから──。


「でも、違ったんだね。奏ちゃんも寂しかったんだ。家族がいるのにいないような気持になって、辛くなっちゃったんだよね。独りでいるような……そんな気分になっちゃったんだよね」


「……あの天才は、凡才に興味なんてない。私に興味なんてない……。でも、それを理解してしまったら、私は、なんのために剣道を……」


「奏ちゃんの世界は、お兄さんだけなの?」


 奏ちゃんの動きが止まる。荒々しい呼吸が少しずつ鎮まっていく。


「今はどう? ゆいもいる。せんせーもいる。つながりがある。……それじゃダメ? お兄さんの代わりに、ゆいたちはなれない?」


 奏ちゃんは、奏ちゃんも、もう孤独じゃない。

 そうだ。結、教えてやれ。


 このどうしようもない兄妹──その妹に教えてやれ。

 兄の方は……俺に任せろ。


「ゆいは、奏ちゃん──ううん、かなちゃんと……お友達になりたいよ」


 剣が生むつながりは冷たい血よりも濃く強いことを教えてやれ。

 手を差し伸べてもらったからこそ、今度はおまえが教える番なんだ。


「私、も……」


 奏ちゃんの背後に滲んでいた漆黒の覇気が、薄くなっていく。

 俺と結と、奏ちゃんの三人で紡いだ糸が、奏ちゃんの心を縫い止め……、


「結ちゃんと、お友達に……なりたい」


 瞬間、結が天を仰ぐ。剣をだらりと下げ──、

 とん。と、小さく跳ねた。


「──かなちゃん……もう独りじゃないよ」


 刻む鼓動は加速していく。それは結の心臓の鼓動を現しているようで。


 ああ。そうか。どうして結のスロースターターが起動する時、跳ねるのか分かった。


 おまえ、感情が抑えきれないんだろ。怒りや喜び、幸せといった感情を制御できないから、跳ねるんだろ。その感情がおまえの体を爆発させる最高の燃料だったんだな。


「行け、結」


 今、結の心が奏ちゃんただ一人に注がれて──、


「奏ちゃんの心を抱き締めてこい」


 そして、試合は結末へと加速する。

 弾けるように踏み込む結。闇を切り裂く小さな矮躯が、一気に友達の心に歩み寄る。

 奏ちゃんも動く。飛び出してきた結に竹刀を向け──、


「──シッ」


 結が小さく息を吐き、手元を浮かせた。面打ちだ。


「ハ、ァッ!」


 その出鼻に合わせるように、奏ちゃんが小手を繰り出した。申し分ないタイミングだ。空を奔る斬線はこれ以上なく美しい軌道を描き──、


「──」


 だけど、違った。

 結の面打ちは幻だった。小手に飛来した一撃を、同じ一撃で相殺する。


 小さく鋭く竹刀を浮かせることで、面打ちの幻を一瞬だけ生み出す。

 そうすれば相手はどうするか、おまえは誰よりも知ってるよな。


『せんせーの試合を見て、覚えました』


 結、おまえはそう言っていた。恵まれた目を以って、おまえは俺の技を盗んだ。

 ならば次は。形無いものを見据えることのできるその目で。


「メェェええええええええええええええええええええええンッッ!」


 大事な友達の心を、しっかり見てやれ──。


 俺が使う、必殺の相小手面。

 結の心で満ちた一撃が、奏ちゃんに突き刺さった。


 残心。文句無し。試合終了を告げる旗が上がるより一瞬早く、審判三名の旗が上げられた。

 結の背に括られている赤い帯と同じ色の旗が、上げられた。


「面アリィッッ!」




 ──剣のつながりが生み出す輪は、きっと冷たい血のつながりよりも強い。

 家族のいない結と、兄から見放された奏ちゃん。


 二つの孤独が手をつなぎ、これ以上なく強い絆を生み出した。

 この戦いはそれだけの話だった。二人の女の子が友達になる、たったそれだけの話だった。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?