二人にとっての大一番が始まった。おそらくは結が飛びかかることから始まるだろう。それが本当の意味で開始の合図になる──。
「む……?」
しかし、俺の予想通りにはならなかった。
「結が動かない」
睨み合いという子どもらしくない立ち上がりに、周囲からざわつく声が聞こえた。
いつもの結なら、自分から攻めていって主導権を握るはずだが。
「いや……相手が相手だからか」
奏ちゃんは相手の打突に合わせて柔軟に対応する術を持っている。下手に飛びこめば逆に斬られるのは自分だと、結も理解しているのだ。
竹刀を細かく動かし、今にも飛び出すぞと思わせる。一瞬の気も抜けない探り合いはされど、ずっと続くワケではなかった。二人の剣先が互いの中結にまで到達した瞬間だった。
竹刀が残像を置いて、振り上げられた。
「──ッッ」
仕掛けたのは結ではなく奏ちゃん。攻勢の主導権は結が握ると思っていただけに、奏ちゃんが今まで見せてこなかった飛び込み技は、意表を衝くには十分すぎる。
「シッ──!」
だがそれは、相手が結でなければの話だ。
俺の相小手面の仕組みすら捉えられる動体視力が発揮される。竹刀で受けるでもなく首を捻って抜く。上手い。打突は受けるより流される方が辛い。力が返ってこないために竹刀のリカバリーがワンテンポ遅れるからだ。
奏ちゃんの脇をすり抜けるように、結が抜き胴を放つが、捉えた場所は元打ち。
鈍い音と共に体が交錯する。ようやく動いた試合に観客が応援の意図を込めて拍手を送る。
「ほぉ……奏が自分から打ちおった。珍しいのう」
「──千虎」
隣に巨大な男が現れた。千虎だ。
「おせぇぞおまえ。始まる前に来いって連絡送ったろうが。妹が決勝を戦うってのに、応援してやろうって気はねぇのかよ」
「は? ンなのあるワケないやろ」
馬鹿かおまえはと、言わんばかりの表情で言い切りやがった。
「奏は自分の意志で、強ぅなる言うて家出したんや。一応兄としては元気でおるか、剣道やれとるかどうかくらいの確認はするけどな……応援なんぞする気はあらへん。ここで負けるならその程度の才能やった言うことや」
相変わらず、曇りのない顔で悍ましいことを言うヤツだ。
「「シィアアアアアアアアアアアアアアアッ!」」
気勢が木霊し、俺の意識を引き寄せる。
結と奏ちゃんの面金がぶつかる。弾ける汗が見えるようだった。狭い視界の中、暑い気温に蝕まれ、それでも二人は必死に勝利を求めて手を伸ばす。
存在の証明を果たすために。因縁の清算を果たすために。
「どっちが勝つと思う? 剣晴」
「……分かんねぇ」
「あ? おまえここ最近、あの子らを見てたんとちゃうんかい」
「だからだよ。その上で分かんねぇ、って言ってんだ」
互いに強みがあり、同時に弱みもある。どちらも決め手となるだけの技がいくつもあるから、下手な予想ができないのだ。
この二週間であの子たちが稽古をした回数は五十二戦。勝率は綺麗に五割。余裕のある試合は一つもなかった。全てが僅差だった。
故に今この瞬間も瞬きができない。このギリギリで釣り合っている天秤はほんの小さなきっかけで一気に傾くに違いない。
決定打となる楔をどこで打ち込めるか──。
ズドォンッ! と二人の面打ちが互いの肩を捉える。
すぐさま鍔迫り合いに移行する。
小手を合わせ、どちらが上を取るか、有利な体勢を作るか、重心の主導権を奪い合う争いが続く。一瞬も気が抜けないだろう。呼吸を悟られたら斬って落とされる。
まさに真剣勝負。小さなミスが致命傷に至る命のやり取りだ。
「……ッ!」
動き出したのは結。足先が霞むほどの足捌きで、奏ちゃんの視界から離脱しにかかる。
されど、冷静に対応するのが奏ちゃんだ。結の身体能力を前にしても翻弄されることはない。
近距離で姿を見失うなら、下がればいい。奏ちゃんがそう判断して一歩後退し、
「あ、そらあかんわ」
千虎がぼやいた瞬間だった。
「メ──ッ」
結の引き面が始動し、奏ちゃんが最小の力で流そうと斜に構えた。
「おまえの出だしを封じる……それが狙いやって奏」
届かせる気のない千虎の声が、隣にいる俺に聞こえた瞬間、
「ドォオオオオオオオオオオオッッ!」
結の放った面打ちの軌道が急激に変化し、奏ちゃんの空いた胴に炸裂した。
観客から驚きと称賛の声が漏れる。結は取ったと確信して残心を取り切るが──……、
「旗が上がらない……?」
「んー、今回の審判、やたらと音を重視しよるな。打突が上手く当たってても音がそう聞こえんかったら上げんタイプか……死角やったとはいえ、下手やな。救われたなぁ奏」
けらけらとどこか小馬鹿にするように笑い飛ばす千虎。
確かにそういう審判はいる。剣道というコンマ一秒を競う世界では、判定が極めて難しい局面などしょっちゅうだ。そこで審判が何を基準に判定するかだが……。
「黒神サンやったら今のは上げてたな」
「……それは同意だ」
音で判断は最も良くない。正しい箇所に当たっていなくても、音と残心がそれらしければ上げてしまうタイプだ。もちろん全てではなく、死角に入って判定しづらい場合の話だが……。
今のは一本だった。だが、確かに音は上手く聞こえなかった。
奏ちゃんが命拾いしたことは間違いない。
「止めっ!」
審判から試合の中断の合図が掛けられる。奏ちゃんの胴紐が今の衝撃で外れたんだ。
指示されて胴紐を結び直す。しかし、奏ちゃんの手が微かに震えているのが分かった。
「我が妹ながら、なっさけないのぅ。いや、おまえの見とる結ちゃんって子が上手いんか」
ふぁ、と一つ欠伸をしながら千虎が今の流れを分析し始めた。
「結ちゃんが果敢に攻めていく中で、奏を後退させた。体重が後ろになっとる間は前に出れへんからなぁ。出れても勢いで負けるから審判の心象も悪い。後手に回しただけでも大したもんやが……さらに念入りに引き胴とはな。ええ狙いや」
その通りだ。今のは完全に結が流れを操作していた。奏ちゃんが後退するように仕向けたと言うのが正しい。
しかし、あの結が。
猪突猛進しか知らなかった結が、これほどまでに相手との駆け引きを行ってくるとは……。
「……相手が奏ちゃんだからか」
より一層、剣での対話を楽しめているんだ。
打って反省、打たれて感謝──それがやがて礼になり、人と人をつなげる。互いに手を取り合うように剣を交わせば、相手の気持ちだって理解できるようになる。
今、結はその成長を体現しようとしている。
「強いやん、あの子」
強くなったな──結。
「しかしまぁ、こら勝負は見えたな。奏の負けや。結局自分から満足に攻められへんヤツに勝機なんぞあらへん言うことや」
二人の試合はもういいとばかりに手を振って退散しようとする千虎。
その背はあまりにも冷たく、欠片も家族を思いやる心がなかった。
「おいッ! 見とけっつってんだろ! まだ勝負は分かんねぇじゃねぇか!」
「見る義理は果たした。この勝負は奏の負けや。もう分かっとるのになんで見なあかんねん」
冷たく言い放つ千虎。こちらを向くことすらしない。
「千虎……おまえ、なんで奏ちゃんが家を出たか分かるか」
思わず、聞いていた。
「知らん。興味あらへん。知ったところでどないせぇ言うねん」
ギチ、と拳に力がこもった。
「あの子は──自分を見てほしかったんだよ」
千虎 刀治の妹としてではなく、千虎 奏として。
「あの子とも過ごして分かった。奏ちゃんは『良い子』だよ。子どもとは思えないほど完成された態度、礼儀、言葉遣い……どうやって身に着けたんだって思ってた」
聞いている千虎は何も言わない。
「分かったんだよ。ああでもしなかったら、奏ちゃんは周りから自分を見てもらえなかったんだ。つながりを作ることができなかったんだ」
ワガママも言わず剣に打ち込む日々──それは果たして、楽しいだけで済んだだろうか。
心の中には、常に鉛が沈んでいたというのに。
「剣道に縋りついたのは、おまえと同じ道を歩もうとしたのは……他ならない、おまえに見てほしかったからだ。おまえとつながりを作りたかったからなんだよ。それをおまえは……」
「やから知らんて。ワイが見てたからなんや。力に変わるってか? 笑わせんなや。剣道は常に一人や。試合で戦うんは己一人や。誰と稽古しようが、所詮は自分という剣を研ぎ澄ます砥石にすぎん。踏み台なんや。せやろ? 自分と竹刀しか持ち込めへん世界に何があんねん」
たった独りでも世界を切り裂く。そうして千虎 刀治は頂点に立った。
「群れるんは雑魚のすることや」
孤独ではなく、孤高という唯一の存在になった──。
「傷を舐め合って、自分は悪ぅない言うてちっぽけな世界で蹲って、自分一人やったらなんもできひんくせに一丁前に吠えおる……ンな雑魚なんぞ見てるだけで虫唾が走るわ」
「そうかよ。おまえは人と人のつながりをそう言うんだな」
だから、突き付けてやらねばならない。結と奏ちゃんと俺が作るつながりは、大きな力を持つんだと。天すら食い破る力を持つのだと、示さなければならない──。
「じゃあ──テメェは今日、俺に負けるよ」
そうだろ結。そうだろ奏ちゃん。俺は今日、天を斬る。神を気取るろくでなしを斬り捨てる。
地面に叩き落とし、人間の姿に変えてやる。
「……ガキん頃からワイに一度も勝ったことないヤツが、勝てるかよ」
「過去の結果でできるのは予想だけだ。未来を決めることは神にもできねぇよ」
千虎はもう何も言わなかった。目線だけ俺に向けて、忌々しいと言わんばかりに舌を打って試合場から出て行こうとする。
二人の試合に目を向けると、奏ちゃんの胴が整ったらしい。ちょうど二人が開始戦で竹刀を構えるところだった。
「──あ」
その、奏ちゃんの視界の先。千虎が試合場から出ていく姿が、たぶん、見えた。見えてしまった。自分に背を向ける、兄の姿が。拒絶する、兄の姿が──……。
「あ、」
審判が再会の合図を出す。結が掴んだ勢いを無駄にしないように飛びかかろうとした瞬間、
「ああ、あ」
錯覚ではない。奏ちゃんの背中から、ドス黒い覇気が噴き出て。
「私を見てよ……兄さん……ッッ」