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第34話:一番弟子は

 中学生の部が終わり、高校生の部が始まる。

 白線の内側で蹲踞をし、呼吸を鎮める。


「せんせーっ! 頑張れぇーッ!」

「剣晴さん! 落ち着いてくださいねッ!」


 結だけではなく、奏ちゃんまで珍しく声を張って応援してくれていた。


 ありがとな。本当に力になるよ。握力が今までにないほど充実してやがる。


 今なら──相手が神であろうが斬り伏せてみせる。


「始めッ!」


 審判の声と同時に、全身を剣に変えて飛び出した。


「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」


 今までに感じたことのない力を漲らせ、怯えを見せた一回戦の相手の面をつぶす。


 悪いな、どいてくれ。俺はこんなところで躓いてられないんだよ。


 決勝に来るであろう千虎をぶっ倒すために──。


「待ってろ天狗野郎。その鼻っ柱へし折ってやるからよッ!」


 一切減速することなく、俺はトーナメントを駆け上がる。





 二回勝ち上がって迎えた準決勝。千虎と佐々木が戦う横で俺も戦う。

 相手は……どこかで覚えのある名前だった。


「……あ」


 そうだ。東京の確かベスト8で戦った相手だ。コイツも出場してきてたのか。枯れ木のように細長い腕と体。鞭のようにしなる剣戟がやりづらかったのを覚えている。


 蹲踞の姿勢から、俺にリベンジを果たそうと息を荒くしている。敗戦からみっちり鍛えてきたようだ。剣から滲み出る闘気には気勢と気合がこれ以上ないほど漲っていた。だいぶ苦しめられるかもしれない。だが──……、


「おまえがどれだけ強くなってようが関係ねぇよ」


 二人の可愛い弟子が見てるから。因縁の相手がこの先にいるから。


「ッシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」


 面越しでも鼓膜を震わせる雄叫び。審判でさえも微かに圧されていたが、


「あの子たちに、カッコ悪ぃところは見せられねぇんだわ」


 俺は『剣聖』。かつて決勝で五人抜きを果たした男。

 今じゃ弟子に剣を教える、ただの指導者見習いだけどな。





 ──……、試合時間二分四十七秒。

 互いに一本も取れず、ギリギリの勝負だったが、ヤツには決定的な隙があった。


 手足が長いということは間合いも広くて有利だが、その分懐が甘くなる。


 しかし、甘くなるといっても瞬きすら追いつかないほどに僅かな隙だ。


 張り詰めた空気と緊張を破るように飛び出してきた面打ちに、抜き胴を合わせて決着した。


 視界の奥で行われていたもう一つの準決勝は、気付かぬうちに終わっていた。


 後で結果を聞いて、ため息が出た。





 千虎は佐々木を僅か五秒──二太刀で沈めていたという。





×××


 小学生の部の決勝が始まる。結と奏ちゃん、二人の決着の場が。

 こっちも決勝を控えているので、体を冷やさないようにジャージを羽織る。夏場だから気にしなくてもいいかもしれないが、闘争心を制御するという意味でも何か羽織っておきたかった。


「あの……剣晴さん」


 チャックを締めたのと同時に、背後から声を掛けられた。この落ち着いた声は奏ちゃんか。


「どした、奏ちゃん。もうじき決勝だろう?」

「……ちょっとだけ、お願いが」


「お願い?」

「はい。……兄に、私の決勝を見ていてほしいんです」


 心臓が跳ねた。覚悟を固めた奏ちゃんの表情をしばらく見つめる。


 決して揺らがない。兄に自分を見てもらう──。


 見てもらえず、失望されて辛くなったから俺のところに駆けこんできたのは知ってる。だから今度こそ……という意思なのだろう。


「伝えてもらえますか……?」


 一瞬だけ逡巡した。変にプレッシャーになるんじゃないか、と。


 でも、この子がそれを望んでいるのなら、兄に成長を見てもらいたいと言うのなら、


「──分かった。首根っこ掴んででも引っ張ってくるよ」

「ありがとうございます! でも、お手柔らかにお願いします……」


 笑顔が少し苦笑に変わって思わず俺も笑ってしまう。

 それだけだろうか、と思っていたら奏ちゃんはまだ何かあるようで、もじもじしていた。


「あの、もう一つ、いいですか……?」

 俺を見上げる姿は、いつになくしおらしい。膝をこすり合わせるようにして、言いたいことがあるけどどう言おうか、言っていいのか悩んでいる様子だ。


 そんな様子を見て、二週間前の夜を思い出す。


 奏ちゃんは良い子であり続けた。ワガママを言わない。


 でも、それでも子どもだ。したいことは我慢せずに言いたいだろう。


 むしろ、子どもだからこそ甘えていい。特に俺の前では。指導する側と教え子という立場かもしれないが、もっと素直になってほしい──。


「奏ちゃん、俺にできることならなんでも言ってくれ」


 俺は二人から与えられてばかりだった。孤独のロッカールームを出たところで結と出会い、つながりをもらった。奏ちゃんと出会い、憧れをもらった。二人から勇気をもらった。千虎に立ち向かうための心を、矜持をもらった。


 でも俺は、この子たちに何かを与えられているのだろうか。


 どうしてもその不安が拭えない。だからこの子たちが喜ぶことなら、何でもしてやりたい。


「えと、その……ゆ、結ちゃんに勝ったら……」


 弟子にしてほしい、かな? 俺はもうすでに弟子だと思ってるんだが。


 という俺の予想は、綺麗に裏切られることになる。


「ぎゅ、って……してください……」


 んゴパ。俺の心臓の破裂する音がした。

 ほっぺを赤く染めてからの上目遣い、破壊力ヤバすぎな。なんだこの可愛い生き物。


 だが、意識をしっかり保て。この子の師匠ならきっちり返してやれ。


「ああ、分かった。結に勝ったらご褒美でな」

「……ッ」


 胸を打たれたような、苦しさと幸福を混ぜた笑みを浮かべる奏ちゃん。


「ありがとうございます。これで私は……誰にも負けない」


 きっと、この子が望んでいたものも、俺や結と同じだったんだろう。


「奏ちゃん……?」

「はうっ……」


 というやり取りの背後で、黒い覇気を滲ませる子どもがいた。結だった。


「抜け駆けはダメって、さっき言ったよね……?」

「で、でも……」


 抜け駆け? 何の話だ? 俺が首を傾げるより早く、結は奏ちゃんの両肩を掴んで、


「はい、選手交代。次は結の番」


 むん、と小さい胸を張って結が俺の前に来る。


「せんせー、お願いがあります」

「お、おう。結もか。なんだ」

「……えーっと……」


 いや、ここにきて照れんのかーい。猪突猛進、って感じの結らしくもない。


 そういやぁ、千虎に負けて敗北への恐怖心が溢れたと自覚したのは、この子の言葉だった。


 ちっとも疑うことをせず、曇りなき眼で『俺は勝てる』と言ってくれた。


 なまじ大人に近付くとよくないな。純真無垢な心を失ってしまいそうになる。


 現実が見えてきている証拠なのだろうが……同時に、自分を信じる力も失いそうで。


 それを繋ぎ止めてくれたのが、結だった。

 後でお礼言わなくちゃな。そう考えていると、いよいよ決心がついたのか結が顔を上げて、


「手ぬぐい……巻いてくれませんか? あと、面も……」


 どういうことだ? 咄嗟に理解ができずに少し無言になってしまう。


「え、なんで……?」


 君は自分で着けられるだろう。シンプルに分からなくて聞き返してしまった。


 だが、すぐに気付く。この子にとってそれがどれだけ大事なことであるか。


 この子には家族がいない。


 誰かに何かをしてもらうことすら、こんな幼い時分で忘れてしまったのだ。


 だから俺に、手ぬぐいと面を付けてほしいと願ったのだ。

 家族と思える人から与えられたぬくもりを、力に変えるために。


「えと、あの……」


 上手く言葉にできない結を見て、反省のため息を漏らす。


「いや……そうだな。それで結が頑張れるなら、やらせてくれ」

「──ホントですか!」


 星が瞬くような輝きを見せる結の笑顔。言うとほぼ同時に、俺に背を向けて正座する。


 その後ろから手ぬぐいを広げ、結の剥き出しになっている額に合わせる。


「えへへ……お母さんにやってもらってるみたいです……」

「──……」


 ああ、そういうことか。ようやく、ようやく結の最大の謎が解けた。


 この子は一体どこで剣道をしていたのか。


 そして、どうしてこの子が剣道を選び、ここまで続けてきたかが分かった。


 きっと、結の母親だ。結の母親が剣道人だったんだ。


 面を被せ、後ろに紐を持ってくる。捻じれないよう細心の注意が必要だ。強く引っ張り、真ん中で蝶々結びをする。結び目が縦になるようにしなければならない。


 その間、結はずっと楽しそうに小刻みに揺れていた。

「結」と声を掛ければ、「はい?」と声だけで返事をする。


「ここまで、よく頑張ってきたな」

「──へ?」

「君は立派だよ。俺の……自慢の弟子だ」


 ポン、と頭に手を置いて、終わったことを伝える。


「弟子だから一つ、課題を出そうじゃないか」

「……?」


 あの日、達成できなかった課題を。





「奏ちゃんと友達になって来い。今回は一人だけでいいからよ」





「──……はいっ!」


 俺の意図が伝わったのか、結は満面の笑みを浮かべて返事をした。


「よし、行ってこいッ!」


 俺が背を叩いてやれば、結は元気よく試合場へ駆けていった。


 奏ちゃんの待つ──試合場へ。


「お待たせ、奏ちゃん」

「いいよ。私も剣晴さんに一つお願い事したし」


「え、何それ。あとで教えてね」

「やーだよぅ。二人の秘密だもん」


「むぅ。じゃあ勝ったら教えてよ」

「勝てるもんならね」


 二人の小さな剣士が、白線の内側に一歩入りこむ。


「正面に、礼ッ!」


 決勝戦は主賓の方へ礼をする。スーツを着ている楓先生に礼をし──、


「ゆいが勝つよ。せんせーの一番弟子だもん」

「私が勝つ。剣晴さんに一番憧れてるのは私だから」


 蹲踞。二人の小学生離れした美しい所作に、会場中が感嘆の息を吐いた。


 そして一秒。呼吸を忘れ。


「始めッッ!」


 戦いが、始まった。


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