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第30話:剣でつながる日々を

 ちゃりーん。お会計、三千七百四十円也。あれからけっこう追加で頼みまくってしまった。


 男子高校生には重すぎる一撃が財布に直撃したが、そんな素振りを顔に出してはいけない。


 俺が奢ると言ったんだから、使ったお金のことなど忘れてしまえ。それよりも二人の距離が近くなることに一役買ったのだから安いくらいだ──。


 そう自分に言い聞かせながら財布をカバンにしまうと、


「奏ちゃん……抹茶食べるなんておばさんみたい」

「え? 結ちゃんは抹茶の美味しさが分からないの? 人生の三分の四、損してる」

「さんぶんのよん?」


 それは人生を一回以上損してる計算になるんよ。来世まで損しとんよ。

 っていうか分数くらい理解しなさいよ結ちゃん。

 首を傾げながら前を歩く結ちゃんに呆れていると、俺の横に奏ちゃんがやって来た。


「剣晴さん、今日はありがとうございました」


 深くお辞儀して俺に感謝を告げる。奢ったことは別に気にしなくていいのにと思っていたら、


「結ちゃんと仲良くなるきっかけを作ってくれて……本当にありがとうございました」


 そっちか。

 お友達になりたい。この子は確かにそう告げた。


 そして結ちゃんもそれを受け入れ……二人の関係は初めて良い方へ向いた。


「いや、俺ももっと早く言うべきだった。あの子の指導を受け持つと決めた時から、ああいう覚悟は固めておくべきだった、けど……」


 いざという時、口は全然動かないものだ。心がやめておけと叫んでもいた。


「誰かに教えるのって、大変だなって思ったよ」

「でも、あなたはそれができる人なんです。剣道の強い弱いよりも──人を導ける、間違いを正すために心を動かせる、暖かい人なんです」


 一切恥ずかしがる様子もなく俺を褒めちぎる。そこまで言われるとちょっと照れるな。


「やはり私の目に狂いはなかった」


 きゅ、と奏ちゃんが俺の手を握り、


「なんで私があなたの剣風に憧れ、指導を願ったか……自分の中で答えが出ました」


 まっすぐに俺を見つめる。瞳に揺らめく炎を携えて。


「打って反省、打たれて感謝……稽古をしてくれた、戦ってくれた相手に礼をする。それが人のつながりを、輪を広げていく……剣道をする人の生き様を豊かにする」


 剣道に強さと勝利が付随することは否めない。何故なら剣は殺すために生み出されたのだから。でも、それが全てならどうして人殺しの道具と技術は剣道として変性したのか──。


「相手をねじ伏せる暴力的な強さだけではなく、人とつながる勇気が秘める強さも、剣晴さんは大事にしてきたんですね」


 剣を交えることに、殺生以上の意味を見出したからだと俺は思う。相手より優位に、上に立つことにしか意義がないのなら、いちいち礼をする意味がない。


「それは──兄に一番知ってほしいことでした」


 心をへし折り、絶望させる剣があの『天照』だから奏ちゃんは嫌気を差し、


「だから私は、あなたの剣風に憧れたのです」


 心を繋ぎ止め、希望を生む剣が『剣聖』だからと言って、憧れを示してくれた。


「そして、それを兄に叩き付けることができるのは、きっとあなただけです」


 だから、と言って奏ちゃんはもう片方の手でも俺の手──右手を握ってくる。


「兄に敗北を教えてあげてください。そうすればあの人も、輪の中に入れるはずだから」


 俺以上にヤツを知るこの子は、ヤツの孤高を憐れんだ。


「その時……私は、剣晴さんの右手を握らせてください」


 俺の努力の証が刻まれている左手ではなく、右手。


「左手はあの子のものだから。剣を振るのに一番大切な部分は──あの子が握るべきなんです。わたしは……あなたの剣を支えるための右手であればいいです」


 その右手を、胸元まで持っていく。


「あなたの隣──その片方で、あなたを感じさせてください」


 これからも。


 奏ちゃんはそう締めくくって、俺の手を離した。

 俺の右手を取ることで、俺たちが作る輪の一部にさせてくれと、この子は希(こいねが)った。

 俺と共につながりを、輪を広げてくれるというのなら、拒む理由なんかどこにもない。


「ああ、約束する」


 ゆえに、俺は宣言する。常に敗北を突き付けられ、苦い思いを味わってきた俺だから、この子の苦しみを理解し、そして代わりに拭い去ることができると信じて。


 俺が、俺こそが、絶対零度の『天照』に敗北を刻むことができるんだ。


「俺は勝つよ、千虎に。絶対に勝ってみせる」


 それがいつになるかは分からない。

 しかし、この魂が燃え続ける限り、俺は何度でも天に浮かぶ神へと挑むのだろう。


 確かイカロスだったか。蝋の翼で太陽まで羽ばたこうとしたが、翼を溶かされて落下死したのは。だが、蠟の翼がダメなら木の翼を。木でもダメなら岩の翼を、鋼の翼を。絶望の光線すら弾き返すほどの翼を携えて、俺は神を地へと叩き落とす──。


「あーっ! 奏ちゃんが抜け駆けしてるーっ!」


 と、互いに目を逸らさず見つめ合っていたら、結ちゃんが突貫してきた。


「……それじゃあ私はここで。家も逆の方向ですし」


 ひらりと躱して俺たちに背を向ける奏ちゃん。後ろ姿には清々しい気持ちが透けて見えた。


「奏ちゃん、せんせーと何してたの! 話してよねっ!」


 明日、道場で。

 結ちゃんはそう言って、奏ちゃんに手を振った。


 その言葉に奏ちゃんが立ち止まり、振り向いて。


「……うん、また明日、道場で」


 小さく、少し照れ臭そうに手を振り返した。僅か数秒のことだ。しかし、二人はそれで十分だったようで、奏ちゃんが歩いて去っていくのを結ちゃんはもう止めなかった。


「帰るか、結ちゃん」

「呼び方」


 結ちゃんに声を掛けたら、なんか脈絡のない返事をされた。


「せんせー……ゆいを叱る時、結、って呼び捨てにしたでしょ」

「あー……そうだったか? 忘れた」

「言ったもん。ゆい覚えてるもん。だから──これからは結って呼んで」


 結ちゃんと結に何の違いがあるのか。よく分からなかったがそれくらいなら。


「結」


 ぴょこん、と久しぶりに結ちゃ……結の獣耳と尻尾を見た。喜ぶように揺れている。


「……いいよ。これで奏ちゃんと何してたか、せんせーに聞くのはやめてあげる」


 別に疚しいことはしてないんだから、いくらでも言うけどな。

 あ、そうだ。ふと思い出した。ついでだからこの際に渡してしまおう。


「結、ところで君に渡す物がある」

「? なんですか?」


 目を丸くして見つめてくる結。

 興味深いものを見つめる猫のような視線を感じながら、俺は自分の荷物を漁り、


「ほれ。踵サポーターだ。剣道やってる人間で結みたいに踵を痛める人ってのは結構いてな。そういう人に向けたクッションみたいなもんだ」


 衝撃を吸収する素材を入れた、爪先の部分がない靴下のようなデザインである。

 値段も大した金額ではないので、俺が実は先生に頼んで注文してもらっていた。


 今日の稽古の時間で先生から渡されていたが、あの一件のせいで結に渡し損ねていた。

 今がいいタイミングだろう。これから大会に向けて稽古をしていくのだから、踵の痛みが脳裏を過って思い切り跳べなくなると剣が鈍ってしまう。


 結は俺の差し出した踵サポーターを両手で受け取り、


「えへへ……せんせーからの贈り物だぁ……嬉しい」


 まるで宝物を手に入れた子どものように喜んでいた。たかだか二、三千円程度の、ネットとかで簡単に買える物だぞ。そんなに嬉しいか?


「ありがとうございますっ! これ、大事に使わせていただきますね!」

「いやいや、こき使ってやってよ。そーいうのはボロボロにしてなんぼだぞ」


 今にも踵サポーターに頬ずりしそうな勢いで顔を緩めている結。そんな姿を見てるとこっちも笑顔になってくる。心が暖かくなるのを感じながら俺は歩き出す。


「じゃ、帰ろうぜ」

「はいっ! 明日も稽古ですね!」

「ああ。道場に行けば奏ちゃんも来るだろうよ」


 もう日が暮れそうだ。地平線に沈んでいく太陽と空の境界線が曖昧になっていく。

 夜が来て、鈴虫の鳴き声に耳を傾けて寝れば、また明日が来る。


 剣道に打ち込む一日がやってくる。

 剣を通じて、俺は二人の教え子とつながる日々を繰り返すのだ。



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