「お待たせしました。ハンバーグステーキとたらこソースシシリー風のパスタでございます」
ウェイトレスさんがホカホカのご飯を持ってきてくれる。
「わーいっ! はんばーぐ! いっただっきまーす!」
「……剣晴さん、今更ですが本当に頂いていいんですが?」
言うや否やすぐにかぶりつく結ちゃんと、パスタを目の前にしてなお俺に確認を取って来る奏ちゃん。しかし、口の端からじゅるりと涎を垂らしていた。
「いいんだよ奏ちゃん。食べな。俺のことは気にすんな」
「でしたら、いただきます。ありがとうございます」
ふー、ふー、と熱いパスタをすくって息を吹き掛ける。眼鏡が湯気で曇っているのが可愛らしい。一口食べて綻ぶ顔を見ているだけでこっちのお腹も膨れてきそうだ。
「へんへーははへはいんへふは(せんせーは食べないんですか)?」
リスのように口を膨らませながら、結ちゃんが何か言ってくる。多分だけど俺は食べないのか? と聞いているのだろう。
「あー、俺はいいよ。なんか君らを見てたら腹がむしろいっぱいになりそうでな」
「剣晴さん、なんか私のおじいちゃんみたいなこと言いますね」
なんだろう、ガキの頃に親が俺の飯食う姿を見てるだけでいい、って言ってたのはこういう気持ちだったのかもしれないな。
──座席に横並びで座りながら料理を食べている二人を見て、どこか安堵の息が漏れる。
良かった。本当に……。結ちゃんの強迫観念があの一幕だけで解決したとは思えないが、少しずつ解消されていくだろう。
楓先生は、怒るのではなく叱ることが大事だと言った。
教育に関して詳しいワケじゃないが、確かにこの二つの言葉はニュアンスが違う。
怒るというのは感情が優先する感じだろう。そして叱ることは過ちを諫め、次につながる言葉を掛けてやること……なのかもしれない。
今まで結ちゃんを傷つけたり、嫌われたりしてしまうのではないかという不安から強く言うことができなかったが、結ちゃんは今もこうして俺の前で幸せそうな顔を見せてくれている。
なら、やっぱりあの決断は間違ってなかった。
この子を蝕む鎖を少しでも壊すことができたのなら、それは……。
「だからね、奏ちゃんはもっと自分から飛び込んだ方がいいと思うんだ」
「でも、結ちゃんはワンパターンなのよ。猪が突っ込んでくるみたいだから、動きの速さに慣れてしまえばいいカウンターの的よ」
「むぅー、昨日の稽古ではゆいの速度についてこれなかったくせに」
「踵を痛めるなんて初心者みたいなケガをしたのはどこの誰?」
「ふんだ! 大会までに治すもん! それで奏ちゃんをけちょんけちょんにしてやるもん!」「それは楽しみね。でも、踵の痛みを言い訳にして泣き喚くあなたの姿が目に浮かぶ」
「むきーっ!」
両手を突き上げて癇癪を起こす結ちゃん。奏ちゃんも向き合って口をへの字に曲げている。
「ああもう、やめろ二人とも。ここレストランだぞ。大人しくしねぇならつまみ出すぞ」
うー、と犬みたいな唸り声を上げて睨み合う二人。
「ったく、剣道の話もいいけどよ、君ら夏休みなんだから宿題とかあるんじゃねぇの?」
どきりんこ、という効果音が二人のどちらからか聞こえてきた。
……細目で二人を見る。奏ちゃんは飄々とした様子で水を飲んでいるが、結ちゃんは空気の抜ける音しかしない口笛を吹きながらそっぽを向いている。
「オイこら結ちゃん? 宿題はちゃんとやってんだろうな?」
「や、ヤッテマスヨ……? ……未来のどこかで」
ふざけんなこのバカ。
「はい、月末の大会までに宿題を終わらせろ。絶対だぞ」
「やだーッ! 宿題なんてやっても剣道上手くならないよぉ……」
「私はきっちり終わらせてるけど?」
さすがは奏ちゃん。地で優等生を貫いてらっしゃる。
「奏ちゃんは眼鏡キャラだからやるべきなんですぅ! ゆいはおバカキャラだからいいんですぅ! やだやだやりたくないやりたくない宿題やだやだぁ」
ぎゃいぎゃいと喚き出してしまった結ちゃん。隣の奏ちゃんは迷惑そうに眉を顰(ひそ)めている。
「あのな、結ちゃん」
喧しい結ちゃんに指を差し、できるだけ目力を込めながら言う。
「バカでも剣道はできる。でもな──バカじゃ剣道は勝てねぇんだよ」
「…………ッ!」
俺の言葉を聞いた結ちゃんは、埴輪のような顔をして衝撃に震えていた。
ちなみにこれは楓先生の格言だ。
結ちゃんと同じように宿題やら勉強やらが嫌でワガママをこいていた時に言われた。
剣道にも頭の良さは必要だ──その言葉が果たして正しかったかどうかは知らないが、とりあえず高校に推薦で入学する際、最低限の勉強は求められたから、必要だったんだろう。
剣道漬けだったかもしれんが、高校で赤点取ってないんだからな!
「……結ちゃん、宿題やってなくて大会出られないとか、ホントやめてね」
「そ、そんなことしないもん! 勉強でも剣道でも奏ちゃんに勝つもん!」
「あらそう。私、夏休み前のテストで全部百点だったけど」
「ぬ」
「夏休み前どころか、小学校に入ってからずっと百点だけど」
「ぬぬぬ」
「うーん、困ったなぁ。百点以外の数字って、どう取るのかなぁ」
「バカにしてんのかーッ!」
「なによ、宿題してないのが悪いんじゃない!」
あーあ、昭和の漫画みたいに喧嘩を始めてしまった。
仲が良いのか悪いのか。子どもは本当によく分からん。
「でもまぁ、そうやって正面から喧嘩できる相手は羨ましいかもな」
俺の言葉で、頬の引っ張り合いをしていた二人が動きを止めてこちらを見てくる。
「俺にゃそういう相手はいなかった。上には先生。歳が離れすぎてる。同年代には千虎がいたが……住んでる世界が違ってたしな。アイツは当時から化物だったよ」
「兄、ですか……」と奏ちゃん。
「ああ。君の兄である千虎 刀治。全てを才能でねじ伏せる絶対の強者。小学四年くらいで剣道を始めて間もなく、中学生でも相手できる剣士はいなくなった」
「そ、そんなに強いんですか……」
結ちゃんがまだ残ってたハンバーグを口に放り込みながら聞いてくる。
「試合をすれば必勝で、大会に出れば優勝が確約されているようなヤツだった。だからアイツは──負けるヤツの気持ちが、悔しいって気持ちが、微塵も分からない……」
辛うじて食らいつけたのは俺だけだった。それでも常にアイツの歩く道の後塵を拝し──終ぞヤツに敗北を突き付けることはできなかった。
また戦う時は来るだろう。しかし、その時に俺はヤツを倒すことができるのか。
「だったら簡単じゃないですか。せんせーが千虎さんを倒して、負けの気持ちを、悔しいって気持ちにさせたらいいんですよ」
ごくり、とハンバーグを飲み込み、結ちゃんがあっけらかんとした態度で言ってくる。
「ゆ、結ちゃん……そんな簡単に言うけど、誰もそれができなかったら兄は今まで──」
「今まではそうだったかもしれないけど、じゃあ次は? せんせーは負けちゃうの?」
そんなつもりはない、と言いかけたが口は動かない。
何故動かない? 言えばいいじゃないか。俺は千虎を倒すと。
胸を張って弟子たちにカッコいい姿を見せればいいのに、どうしてもできない。
「せんせーなら勝てるよ」
皿を平らげて、膨らんだお腹を擦りながら結ちゃんは言う。
「絶対勝てる」
何を根拠に──そう言おうとした唇も、固まって動かない。
「だって、ゆいと奏ちゃんが大好きな、せんせーだもん」
少しだけ腫れた瞼で、結ちゃんは満面の笑みを浮かべた。
何を無責任な……直感でそう思ったが、どこか心の芯に熱が通ったのを感じた。自分は勝てるという根拠のない自信が、不思議と湧いてくる。
「大丈夫」
そして結は、俺の心に最も必要な言葉を分けてくれた。
「せんせー、言ってくれたでしょ。負けても離れることはない、って。
結たちだって同じだよ。だから──失うものなんてない。何も怖くないよ」
俺はいつからこんなにも敗北を恐れていた?
「…………あれ?」
本当にいつからだ? 子どもの頃は無我夢中で剣を振ってきた。一本を取って、取られて、喜びと悔しさを抱えて道を歩んできたはずだ。
俺はどこから、負けることに憶病になった?
勝てば勝つほど、負けられない重圧に押しつぶされそうだった。魁星旗の時も仲間のために負けられない──その思いが力になったことは間違いないのだが、同時に……負けたらと思うと、胃の中のものを吐き出しそうだった。
怖かった。負けが。歩めば歩むほど、強くなればなるほど、背負うものも大きくなって。
決定的なのは、魁星旗を優勝に導き、『剣聖』だなんて大それた異名を頂戴した時だ。
『剣聖』なんだから勝って当たり前。
『剣聖』なんだから最強に決まっている。
必勝と優勝。そんな重い荷物を背負わされて、くたびれたのはどこでだった?
負けたらすべてが失われる──そう錯覚し始めたのはいつからだった?
「……、あそこしかない」
全国の個人戦決勝。生涯を剣道に捧げても、俺は終ぞヤツを超えることはできなかった。絶対の太陽を前に、泥臭い努力は焼き尽くされるだけ。そんな現実を味わわされ、俺は──……、
『おまえも、大きな穴が開いてんだよ』
楓先生に言われた言葉を思い出す。
それだけではない、佐々木から、そしてアイツからも言われた──。
『負けを恐れていては……一本だって一本にはならん』
『こんななよなよなってたか』
そうか、全ては同じことを言っていたんだ。
全国の決勝で千虎に負けたことで、今まで抱えていた敗北への恐怖が爆発したんだ。負けたらどうしよう。そんな思いが、あの日からずっと俺を蝕んできたんだ。
そうして生まれたトラウマが、俺の心に大きな穴を開けていたんだ。
だから佐々木との戦いの時、立ち上がりに調子が出なかった。周囲は俺に勝つことを望んでいる。故に負けられない──敗北への恐怖が重くのしかかっていたんだ。
「く、はは……」
それをまさか……小学生に教えられるとは。
「せんせー?」
「剣晴さん?」
どうしたんだろうか、と同じ方向に首を傾げて見つめてくる子ども二人。
「いや、そうだな。俺は勝つよ、千虎に。負けっぱなしじゃいられねぇもんな」
「……ッ、せんせーっ!」
ぱぁ、と輝く結ちゃんの顔。
「……確かに、現状日本で兄に勝てる高校生なんて……剣晴さんしかいないですもんね」
どこか呆れたように言いながらそれでも笑顔を見せてくれる奏ちゃん。
この二人に応援されるとなったら、何故か負ける気がしねぇや。
「ありがとな……俺の剣を好きになってくれて」
結ちゃんと奏ちゃんが同時に照れる。頬を染めて俯く姿が愛らしい。
「二人が俺を目指して恥ずかしくないよう、千虎の野郎をぶっ倒してやるぜ。
だから二人とも──俺を目指せよ」
勘違いしていた。
俺が本当にするべきことは、この子たちが憧れるに相応しい姿を見せることだ。
「「はいッッ!」」
少し前までは、千虎に負けるような俺になどならないように指導しようと考えていたが……とんだ大間違いだったと痛感する。
そうじゃないだろ。この子たちが俺に憧れ、指導を受けたいと言うのなら、俺が千虎をぶっ倒して、君たちは強い俺を目指すんだくらい言わなくてどうする。
「よぉし、景気付けに……特大パフェでも食ってくか、二人とも!」
「「え、パフェ大好きッッ!」」
バーン、と俺に飛びかかるように身を投げ出してくる二人。
まるで姉妹のように同じ顔で笑みをこぼしていた。