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第28話:友達に

 そう遠くない位置だろうとは思っていた。荷物は全部道場にあるし、いざ帰ってくる時に遠すぎると億劫になるし……という俺の予想は的中し、道場をぐるりと半周した裏手で結ちゃんを見つけた。


 面と小手は無造作に放置されていた。その奥で、膝を抱えてぐずっていた。


「ぐすっ……ゆいは、負けちゃダメ……お母さんが、大事な人がいなくなっちゃう……負けちゃダメ、ダメなのに……」


 不規則な呼吸が蝉時雨にかき消されそうだった。

 俺には気付いていない。声を掛けるべきか迷うところだが、ここで退いちゃいけない。


「結ちゃん」


 ビク、と結ちゃんが怯えたように反応した。


「せん、せー……」


「結ちゃん、俺は言ったよな。剣道は打って反省、打たれて感謝──……それが礼に繋がると。その礼が、やがて大きな輪を広げていくんだ。剣道は一人ではできない。稽古をつけてくれる相手がいるからこそ、剣道は成立するんだ」


 稽古をしてくれてありがとう。教えてくれてありがとう。成長させてくれてありがとう。

 共に稽古をすることは、相手の時間や体力を奪うことと同じだ。


 無論、相手も自分のために稽古をしているのだが、それはお互い様である。ならば、自分のために時間を、体力を割いて相手してくれたことへの感謝を示さなければならない。


 何かをしてもらったら礼をする。人として当然のことだ。

 何かをしてもらうことを当たり前と思って礼を欠いたら……終わりなのだ。


「強くなることを望むのはいい。俺だってそうだ。でも、剣道はそれだけじゃダメなんだ」


 腰を下ろす。結ちゃんと目線の高さを合わせる。


「強さだけじゃ誰も近寄ってくれない。稽古してくれない。人を思い遣る心があって、人とのつながりに感謝できる人こそが……剣道では大成するんだ」


 剣道の理念──人間形成の道というのは、礼に始まり礼に終わる、感謝を示すことに他ならない。決してパフォーマンスや形式美などではない。


 近付いて、動けないままでいる結ちゃんの両肩を掴む。


「強いだけで優しさのない乱暴な人と、誰が仲良くなりたいと思う?」


 微かに怯えた様子だったが、それでも結ちゃんは必死に喘いで言葉を絞り出した。


「でも、ゆいは、強くならなきゃ……。何よりも強く……誰にも負けちゃいけないんです」


 そうして滲み出るのは、この子が囚われ続けている強迫観念。


 負けたら大事な人がいなくなる。大会での敗戦と母親の死が偶然にも重なってしまったこの子は、呪いを背負ってしまった。ここまで追い込んだのは、他ならぬこの子自身。


 なら、誰がこの子を許してやればいい? 己を縛り、苦しめ、それでも茨の道を歩もうとするこの子の手を、いったい誰が握ってあげればいいというのだ。


『剣聖さん! ゆいに……剣道を教えてくださいっ!』


 それは──他ならぬ俺だ。俺しか、いないんだ。

 この子が憧れたという『剣聖』こそが、この子を導かなければならないんだろうが。


「大丈夫だ。結」


 力強く目を見つめる。この子の瞳の奥に宿る鋭い切っ先は、今にも瓦解しそうなほど罅が入っていた。どこまで削って、どこまで磨いたのか。


 天涯孤独の中、一人で剣を振り続け自分を追い込み続けた。その努力は手と剣に現れている。痛々しいその姿に心が辛くなる。


 だからこそ、伝えなければならない。これが俺の決断だ。





「俺は君の許からいなくなったりなんかしない。


 一生、君を離したりなんかしない」





 ──熱い風が吹いた。夏の熱気に温められた風ではない。俺の魂から溢れ出した思いが、この子を包むように迸ったのだ。


 ゆっくりと、結ちゃんの心を固めている氷を溶かしていく。

 ゆっくりと、優しく。


「で、も……ゆいが負けたら、せんせーは……」

「オイオイ、一回負けたくらいで見限るワケねぇだろ。言っておくけどな、剣道やってる人間なんかみんな、勝った試合の数より負けた試合の数の方が多いんだぞ」


 ……あの例外だけは除いてな。


「せん、せーも……?」

「俺もだ。俺どころか楓先生だってそうだぞ」


 才能ある子どもは山といる。そこら辺にゴロゴロと。それでも──負けたことないなんてありえない。絶対に誰もが負けたことはあるんだ。敗北を味わって、それを糧にして強くなる。


 負けを知るからこそ、誰かに寄り添うことができるのだ。


「私だってそうだよ、結ちゃん」


 すると、俺の背後から凛とした声がした。

 驚いて振り返ると、そこには奏ちゃんがいた。防具姿で、少し息を切らしている。どうやらいてもたってもいられず、後から探しに来てくれたのだろう。


「奏ちゃん……」

「言ってあげればよかった。結ちゃん、私はね……千虎 刀治の妹だからって、そんなフィルターで見られてきたの。何をしても、勝っても、あの人の妹だから当然だ、って……」


「…………」

「生まれてからずっと、兄に敗北し続けてきたようなものなの。兄より結果を出せなければ負け。そんな世界で育って……一度も勝ったためしはない」


 天才の妹であるが故の宿命。何をしようがこの子は己を見られることがない。


「剣晴さんに指導を願ったのは、そんな兄から離れるため。逃げだったの」


 その呪縛こそが『良い子』である千虎 奏を作り上げた。『良い子』であれば大人たちは自分を見てくれたから──その考えが、この子の優秀な剣を作り上げた。


 自分自身を霧に撒く不気味な剣。自分を主張する打突を繰り出すのではなく、自分を押し殺し、相手の心を掌握して裏を掻く剣を繰り出す。


「私は剣晴さんを独り占めするつもりはない。それは分かってほしい。そして……結ちゃんと一緒に稽古できたらすごくいいなって思ってる。楽しいもの──結ちゃんの剣」


 自分とは真逆だから。天真爛漫に己を振りかざし、身体能力を活かした打突を放ってくる。相手との読み合いを無視して力技でねじ伏せる……そんな剣道は奏ちゃんの辞書にないのだ。


 だけど、それが楽しいと。奏ちゃんはそう言うのだ。


「あの決勝戦はあなたが汗で滑って、結果的に私が勝った……でも、私だって納得してないの。だから正々堂々と決着がつけたいと思っていたら」


 ちら、と俺の方を見る奏ちゃん。


 あーなるほどね。二人の決勝戦で起きた偶然と、結ちゃんと出会ったことで起きた偶然。

 それらが重なり合って……俺たちは出会ったのだ。


「結ちゃん、私はね」


 奏ちゃんが息を吸う。

 昨夜、俺に自分をさらけ出すことができたから、今度は結ちゃんに自分を見せようと。





「結ちゃんとお友達になりたい」





 さわり、と撫でるような涼風が吹いた気がした。

 結ちゃんの頬を伝う涙を拭い去るように、優しく。


「……結ちゃんは、私とお友達になるの……嫌?」


 奏ちゃんは、結ちゃんに手を差し出した。


「ぁ、う……」


 奏ちゃんは俺を自分から奪うような存在じゃない。ただ、俺の元で剣道をして、自分と良いライバル関係になれたら──そんな意思が伝わったのか、結ちゃんがゴシゴシと目元を拭う。


「うぅん。なりたい。ゆい、奏ちゃんとお友達になりたい……。冷たくしてごめんなさい。酷いことして……ごめんなさい」


 ぺこり、と素直に大きく謝罪した。


「うん。いいよ。これからはお友達だね」

「……うん」


 そして、差し出された手を──しっかりと掴んだ。

 いいな。小学生の友情てぇてぇな。俺も昔はこんなだったかなぁ、などと考えていたら、


「でも……せんせーは、あげないよ」


 俺と奏ちゃんが微かにずっこける。


「だけど、右手だけならいいよ。左手はゆいのだからね」


 聞きようによってはちょっと怖いんだが、なに、腕千切られんの俺。

 なんでそんな左手にこだわるんだろうな。そう思って自分の手を見ていると。


「ふふ……分かった。左手は結ちゃんにあげる。右手は私ね」


 奏ちゃんも同調すんのかーい。そこら辺の気持ちが全然分からねぇんだけど、女子小学生の間で流行ってるジンクスか何かか? とんだスプラッタなジンクスだ。今すぐ廃れてしまえ。


「そりゃ、左手は特別ですよ剣晴さん」


 俺の疑問が伝わったのか、奏ちゃんが俺に教えてくれる。


「左手は──剣道の努力の証が刻まれてるんですから」


 ……要はマメだらけの手が好きってこと? 変わってんな、今時の小学生って。

 なんて思っていると、結ちゃんは腫れた瞼を擦りながら奏ちゃんに向き合い、


「一緒に稽古、したいね」

「うん、したい。でも、大会まで稽古できないから──」


 ……アフターケアは俺の役目とか言っておきながら、結局奏ちゃんに持って行かれた気がするが、ひとまず解決したと見ていいだろう。道場に戻るために声を掛けようとした瞬間、


「あー、その件ならもういいぞ。二人が喧嘩まがいのことをして怪我をするのが怖いだけだったから。仲良くなったのなら稽古せぇ、ヤリまくれ」


 にゅ、と角から楓先生が不審者ばりに顔を覗かせてきた。


「うわっ、びっくりした……」

「黒神先生、いつからそこに」

「奏ちゃんが手を差し伸べたあたりだな。いやぁ、友情は尊い。若さって最高だな」


 パチパチと拍手する先生に、俺は思ったことを言った。


「先生はもう三十路みそじですもんね」

「おう剣晴、後でヤキいれてやる。アタシはまだ二十八だ」


 理不尽だ。

 昨日は散々俺に苦労を掛けたというのに、そこを考慮する気持ちはないのか。


 ヒラヒラと手を振りながら、「さっさと稽古戻りなー」と言い残して去っていく楓先生。


「……稽古終わったら、俺ら三人で飯食いに行こうか。好きな物頼んでいいからよ」

「ホントですかっ! やったーっ!」

「で、でも奢ってもらうのは申し訳ないですよ剣晴さん……」


 喜ぶ結ちゃんと遠慮しようとする奏ちゃん。


「奏ちゃん、そこは素直に受け取っとけ。子どもが大人に遠慮すんなよな」


 まだ十八だが。でも小学生の頃とか高校生がやけに大人に見えたから、間違ってないだろ。

 ぽむぽむ、と頭を優しく撫でてやると奏ちゃんはどこか照れたように縮こまって、


「……分かりました。ありがとうございます、剣晴さん」

「あっ! 奏ちゃんズルい! ゆいも撫でてせんせーっ!」


 いつもの突撃をぶちかましてくる。胴がないから伝わる威力は五割増しだった。


「ごぶっ……あ、後でな……」

「約束ですよーっ!」


 隣でクスクス笑う奏ちゃんを見て、俺も自然と笑みが零れた。



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