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第27話:師として

 結ちゃんの様子がおかしい。


 朝起きた時からずっとだった。俺は奏ちゃんと話しているうちにいつの間にか眠ってしまっていたらしく、起きた時は奏ちゃんが俺の懐で猫のように丸まっていた。


 目覚ましより少し早く起きた結ちゃんがそんな俺たちの姿を見て、「せんせーのバカ」と大声で叫んだ。同時に目覚ましが鳴り、俺と奏ちゃんは跳ね起きた。


 早朝稽古として行っている素振りの時も、ずっと結ちゃんは満足に口を利いてくれなかった。


 奏ちゃんが話しかけても、ぶすっとしてて相槌を返せばいい方だった。

 そのまま奏ちゃんは祖父母の家に戻った。楓先生に連絡して送ってもらうらしい。見送りの際も結ちゃんはそっぽを向いて奏ちゃんに何も言わなかった。


 なんでこんな機嫌悪いんだ?


 奏ちゃんが泊まったことに怒っているのか? でもそれは勝負で納得したはずだ。さすがにそこまでワガママを言うことはないはず。だからこそ理解ができないのだか。


 子どもって分かんねーなー……。そう思いながら道場の稽古に向かった。


 お盆休みに差し掛かったということで、稽古はなくとも道場は開放されている。普通休みなんじゃないかと思うが、楓先生には剣道を休んでまで優先するそんな予定がゲフンゲフン、これ以上はいけない。道場経営に精を出してくださるとても尊敬できる先生です、まる。


 もちろん世間では休みなので、旅行だの用事があって来られない人の方が多い。だから半分『稽古時間中は開けておくから好きに使ってね』状態だ。


 この前の稽古より人数は少ないものの、それぞれが気を充実させて稽古している時だった。


「コテぇぇぇあッ!」


 パコォンッ! と鋭い小手の一撃が炸裂する。

 幼い声色の気勢だ。ならば結ちゃんか──と思って見たら、


「え……ぁ……」


 違った。結ちゃんが取られた。

 しかも奏ちゃんにではなく、道場に通う同い年の男の子に。


「やった、やった! 昨日は負けたけど、取ったぞ!」


 残心を取る前に大はしゃぎしてしまう少年。試合なら気が不足しているとして一本は取り消しになるところだが……試合ではない。打たれた事実は変わらない。


「うそ……そん、な……」


 愕然として体を震わせる結ちゃん。信じられないと言った様子で、再び男の子に向き直す。


「もう一本ッ! 勝負ッ!」

「いーぜ、また取ってやる! 昨日やられた分取り返してやる!」


 本気も本気。結ちゃんは全力の気を漲らせて男の子に突撃するが、


「胴ぉおおおおおおおッ!」


 跳ね返されるように抜き胴を決められた。男の子は今度こそ残心を取り切る。文句なしの一本だった。振り返る両者の気勢には天と地の差があった。


 どうしたことだ。こんなにも結ちゃんがボコボコにされるなんて。まさか今朝から機嫌が悪いのと関係があるのか。だとしたら最悪だ。剣道ほどメンタルが勝負に影響する武道はない。


 だからこそ黙想で己の雑念を捨て、剣道に没頭する必要があるのだが。

 今の結ちゃんは、雑念というおもりが体の中に沈んでいるようにしか見えない。


「うぅ……ッ」


 結ちゃんが顔を顰(しか)めて、左膝を床に付けてしまった。


 ──踵か。アイシングで治療を行ったが、また痛み出してきたようだ。ひょっとしたら右踵の痛みが気になって上手く立ち回れないのか。


 これ以上はよくないな、そう判断して結ちゃんを止めに行こうとしたら、


「結ちゃん……大丈夫?」


 近付いて手を差し伸べたのは、奏ちゃんだった。


 奏ちゃんは一度家に帰ってからすぐに稽古へ来た。先生と俺から結ちゃんとの稽古は禁じられているため、今は別で稽古をしていたが、痛そうにする結ちゃんを見かねたのだろう。


 自分に向かって差し出される手。それを見て結ちゃんは──……、


「……いらない」

「え……?」

「いらないって言ってるのッ!」


 バシンッ! と親切に伸ばされた手を払いのけた。


「邪魔しないで。ゆいの邪魔をしないで! こんなの何ともない、痛くなんてない! 奏ちゃんに親切にされたくなんか──」




 瞬間、俺の頭の何かが弾けた。




  ──いいのか? おまえは、せっかく積み上げたものを壊すかもしれないんだぞ。


  俺の心が、そんな声を上げた。

  一瞬だけ、躊躇した。俺の中の嫌われたくないという恐れがブレーキを掛けるが。


「……だったらそれまでだ」


 あの子を大事に思うのなら、今ここで躊躇するべきではない。

 その決断が、俺に一歩を踏み出させた。




「──おい、ちょっと待て、結」




 自分でもゾッとするほど低い声が出た。


「ひぅ……ッ」


 今まで聞いたことのない俺の声色に結ちゃんがビクついた。奏ちゃんも驚いて振り返る。


「せっかく親切にしてくれているのに、その態度はなんだ」

「だ、だって……奏ちゃんは……」


「自分のライバルだからか? ライバルなら、敵対しているなら、心を踏み躙ってもいいのか?」

「う、うぅ……」


 結ちゃんの目に涙が溜まる。

 罪悪感が内臓を締め付けて苦しいけど、俺はここで止めなければならない。この子の間違いを。この子を指導するという責任を果たさなければならない。


 拳を握った。


「君はこの前からそうだった。俺や楓先生といった目上の人に対しては礼儀正しいけど、同年代……それも自分が勝った相手には礼をしない。なんでだ?」


 俺が佐々木と稽古をする前だ。結ちゃんに出した課題……五人と仲良くなること。結局あれは達成できなかった。奏ちゃんが乱入してきたから、ではない。その前から、おそらく結ちゃんは子どもたちと仲良くなれていない。稽古後の礼を欠いていたから。


「…………ゆい、は……」


 黙ってしまう結ちゃん。蚊の鳴き声ほどの声はすぐに消失した。


「ゆいは……ッ」


 そして、竹刀を放り出して俺の前から逃げ出した。

 結ちゃん、と呼びかけるがもう遅い。一目散に走って道場から飛び出してしまった。


 ……追いかけた方がいいんだろうか。でも、今行ったところで逆効果じゃ──、


「剣晴さん」


 と考えていると、奏ちゃんが声を掛けてきた、その目は険しかった。


「結ちゃんを追いかけてください」

「……行っていいのか? 俺が」


 まだ行くべきかどうか迷っていると、もう一人が俺に進言した。


「行け、剣晴」


 楓先生だった。


「よく言った。よく怖さを超えて叱った。おまえは怒ったんじゃない。叱ったんだ。感情に任せるのではなく、必要なことだけを言えた。それは指導において非常に大事なことだ」


 ガシガシと頭を掻きながら、一指導者として告げてくる。


「叱る、子どものよくないことをよくないと言う……それは指導する立場の人間が誰でも抱える恐怖だ。アタシもな、クソ生意気なおまえをシバく時、実は怖かったんだぞ」


 ……本当かよ。嬉々として俺を打ちのめしていたような気もするが。


「でも、言うだけじゃダメだ。大事なのはアフターケア。叱ったのならば次はどうするべきか。そこまでの道を示してこそ指導だ。だから行ってこい。おまえの役目だ」


 しかし、俺がここまで来られたのも、他ならぬこの人の尽力が大きい。そのことを思い出し、剣士よりも指導者としての先達である黒神 楓の言葉を信じてみようと思った。


「分かりました。行ってきます」


 道着と防具でこの炎天下ならばそう遠くへは行けまい。ましてや小学生の足だ。

 防具を外して靴を履き、結ちゃんを探しに走った。



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