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第26話:涼風の心

「剣晴さん……お尻大丈夫ですか?」

「お、おう……ちょっとヒリヒリするけどまぁ、大丈夫……」

「ふん、せんせーのばか」


 ぷい、と頬を膨らませてそっぽを向く結ちゃんの隣で尻を押さえる。多分出血とかはしていない。まだ竹刀でよかった。これが木刀とかだったら間違いなく裂けていた。


「剣道じゃ負けないもん……」


 結局のところ、お手伝い三番勝負は言うまでもなく奏ちゃんの圧勝だった。観念したのか結ちゃんは奏ちゃんが泊まることを認めたようだ。


 今は三人でシングルベッドに川の字になっている。俺の右脇に奏ちゃん、左脇に結ちゃんだ。


 小学生とはいえ女の子と一緒に寝ることになるとはな……。緊張して上手く寝れない気がする。それに狭いため、良い匂いまでしてくる始末だ。


 ロリコンではないはずなのに、心臓がマラソンをした後みたいに喧しい。


「奏ちゃん、こっちの手はゆいのだからね」


 ぎゅー、と俺の左手……特に掌を包むように抱きかかえる結ちゃん。

 そう言えば、結ちゃんはやたらと左側を譲らなかったな……。


「……別にいいけど」


 どこか「むっ、」と眉を寄せて対抗するように俺の右手を取って来る奏ちゃん。


 なんでそんな対抗心が湧いてるの? いやでもボロボロな結ちゃんの手の感触と、柔らかな奏ちゃんの手の感触のコントラストが何とも言えない幸福感を……待て待て。意識をしっかり保て。こんなところでトリップするな。


「ってか、やっぱ俺床で寝ようか? 邪魔だろこんなデカブツがいたら」

「「いや、せんせー(剣晴さん)はここにいて(ください)」」


 なんでこんな時だけ揃うんだ。両脇からぴしゃりと言われたら大人しくするしかない。


 まぁ、それもそうか。俺が床で寝たら二人は間近で寝ることになる。勝負の結果で泊まることになったとはいえ、仲が悪いのは変わらずなのだ。間で中和するなにかは必要か。


「……分かったよ。じゃあ早く寝なさい。明日は早朝も稽古するからな」

「「はーい」」


 カチカチ、と部屋の電気を豆電球だけにする。

 暗くなったとたん、結ちゃんが手だけではなく体全体で俺の左腕を包み込むように抱き締めてきた。まるで好きなぬいぐるみを離さない子犬のようだ。腕が痺れてきそうだった。


 抱き枕みたいにされることしばし、徐々に結ちゃんの体から力が抜けて、柔らかな呼吸を繰り返すようになった。寝付き良いな。


 俺も寝るか、と天井を見上げたら、


「剣晴さん……まだ起きてますか?」


 右側から奏ちゃんが耳元で囁くように聞いてきた。


「寝てるぞ」

「起きてるじゃないですか」


 ふふ、と微かに笑う。早く寝なさいよ。そう言おうとして息を吸うと、


「剣晴さんは、結ちゃんのことが好きなんですか?」

「──んごふっ」


 なんてとんでもないことを聞いてきた。


「な、なんでだよ……」


 結ちゃんを起こさないようにむせていると、奏ちゃんと目が合う。こんな近い距離でこの子の眼鏡無しの顔を見るのは初めてだったが、どこぞの雑誌に小学生モデルとして取り上げられてもおかしくないほど顔が整っていると思う。


 アーモンドのような形の目を少し眠そうに垂らしながら、


「だって……事情が事情とはいえ、ここまでするなんて普通しないな、って」

「んー、まぁ正直言うと、俺はこの子に感情移入してる」

「感情移入?」

「ああ。この子は物心ついたときから剣を振ってきたんだ。手のマメを見たか? あんなの、小学生の女の子がつけていい傷じゃない。血と涙と汗……積み上げた努力がこの子を構成してるんだ。……足りない部分はたくさんあるけどな」


 特に──心の部分で。


「必死に強くなりたかったんだろう。その気持ちが痛いほど分かるから……応援したくなる」

「…………私だって、」


 何かを言いかけたが、奏ちゃんはハッとしたように言葉を止めた。まるでしてはいけないことを思い出したような。口を閉じて、しばし目を泳がせる。


「私、別に結ちゃんが嫌いというワケじゃないんです」

「あ、そうなの?」


 ちょっと意外だった。


「でも……あんな風に言われたら、ムッと来るのは仕方ないじゃないですか。抑えなきゃ、って思ってても……結ちゃんの前だと、どうもうまくいかなくて。どうしてでしょうか」

「あんな露骨に感情をぶつけられたらなぁ。確かにしょうがない」


 むしろ、あれほどまでに悪態を吐かれて平静を保てる小学生なんかいるワケがない。


「結ちゃんも……『剣聖』さんのことが──き、だからかな……」


 両腕を頭の後ろで組み、天井を見上げて笑っていると、奏ちゃんが隣でボソリと呟いた。


「ん? なんて?」


 よく聞こえなかった。首だけを向けて尋ねるが、


「い、いえいえっ! 何も言ってません! 忘れてください!」


 珍しく狼狽して顔の前で手を振っていた。


「そ、そうか……」と返して静かになることしばし、奏ちゃんが口を開いた。


「……あの日の決勝戦は、本当に悪いことをしたなと思いました……まさかお母さんが」

「んー……でも、それは君からしたら知ったことじゃないだろ。君は悪くない」


 奏ちゃんが少しだけ顎を上げた。


「俺は何も君の指導を断るつもりはないんだ」


 奏ちゃんの瞳が、微かに潤んだ。


「君の才能は本物だ。剣道を始めてまだ一年だろ? 結ちゃんよりも短い時間で結ちゃんと互角かそれ以上まで登り詰めてる……努力もそうかもだが、素晴らしい才能だよ」


 俺の手を握る奏ちゃんが、より深く手を絡めてくる。


「ありがとう、ございます……。結ちゃんが羨ましいですね」

「なんで?」

「こんな優しい言葉を、いつも掛けてあげてるんでしょう?」


 ……掛けてた、かなぁ。あまり記憶にない。


「もしも、もしもですよ……? 先にあなたに指導を願ったのが、結ちゃんじゃなくて、私だったなら……剣晴さん、あなたは──……」

「君と結ちゃんの立場は逆転していたよ。断言する。俺は君の気持ちもよく分かるから……」


 すべてはタイミングでしかなかった。

 あの日、先に突撃してきたのがたまたま結ちゃんだった。アレが奏ちゃんで、後日道場にやってきたのが結ちゃんだったなら……俺が指導することになったのは間違いなく奏ちゃんだ。


 早いか遅いか。違いがそれでしかないのなら、どちらか一方を特別扱いなどしたくない。

 二人とも、俺の剣風を好きだと言って、憧れから近付いてきてくれたのだから。


「千虎 刀治という存在は、俺にとって目の上のたんこぶだった」


 奏ちゃんは相槌を打つでもなく、黙って俺の話を聞いている。


「いっつも比べられてな。アイツはこうだったけどおまえは──なんてセリフ、耳にタコができるくらい聞かされたよ。どれだけ足搔いても……アイツより上に立つことはできなかった」

「…………分かります」


「だから全国決勝でアイツに勝てば、俺は自分自身を初めて認めてやれる気がした。俺は凄いヤツなんだと、胸を張れる気がした。けど……」


 でも──負けた。負けてしまったのだ。


「俺はアイツより弱い。それが分かっちまった以上、俺は俺を──……」

「そんなことないです」


 話の途中で、奏ちゃんが小さな声だけど強く断ち切った。


「剣晴さんは強いです。──兄よりもずっと」


 その目には、今日の稽古で見た熱風が吹いていた。

 言おうとした自虐のセリフは、焼け焦げて崩れた。


「……ありがとう。そう言ってくれる人がいるだけでありがたい」

「私も、私、も──……」


 何かを言いかけて、また黙ってしまう奏ちゃん。

 その姿を見て、気付いた。





 ああ、この子は自分を限りなく押し殺してここまで来たんだ。





 天真爛漫に自分をさらけ出せる結ちゃんとは真逆。どこまでも自分の感情を殺して、大事な場面でこそ自分を出そうとしない。顔色を窺う。良い子になろうとする。


 実際丁寧で良い子なのは分かる。根がそういう子だっていうのはもう言うまでもない。

 ただ、この子の場合……それを好きで身に着けたワケじゃないのかもしれない。


 良い子にしなければ、兄より劣っていると見られている自分が愛情を受け取る術はないのだと、この子もまた強迫観念じみた思いを持ってしまった。


 それがあの剣道だ。相手の心を読み、その裏を掻くような。結ちゃんのスロースターターが発動する前に、悉く手玉に取っていたのを思い出す。そりゃあ猪みたいにまっすぐ突っ込んでくる結ちゃんを捌くのはやりやすいだろうな。


 勝負を仕掛けるのも、それが平等な我の通し方だったから。

 ワガママを言っては嫌われる。そんなことを早々に理解した奏ちゃんは、勝負という互いが納得のいく、自分が納得のいく方法を取って自分の意志を勝ち取ってきた。


 良い子だ……だけど、ちょっと早熟しすぎだな。


「いいんだよ、奏ちゃん」

「え──……?」

「ここは千虎の家じゃない。俺の部屋だ。結ちゃんは寝てる。ここには俺と君しかない。良い子にしなくてもいい」


 我ながらキザなこと言ってんなと思うが、冷静になっちゃダメだ。

 奏ちゃんを大事に思うのなら、この子の気持ちに寄り添って貫き通せ。


「君はどうしてほしい?」


 自分の思いを言っていいんだよ。そう含めながら体を奏ちゃんの方に向ける。


「──、──良い子じゃなくても、いいのなら……」


 二、三回、口を開閉する。言葉を紡ごうにも、本当に紡いでいいのか迷っている。

 待つ。俺はひたすらに待つ。できる限り力を抜いて奏ちゃんの瞳を見つめながら。


「私、は──、……」


 ふるふる、と唇が戦慄く、一文字一文字を大切にしながら、自分の思いをさらけ出す。





「私を……見て、欲しいです……」





 千虎 刀治の妹、というフィルターではなく、千虎 奏という一人の剣士として。

 この子は俺と出会ってから初めて──本音を告げた。


「ああ。もちろん。見ているよ」


 向けられた小さな心を、決して溢さないように掬い取る。その言葉を聞いて奏ちゃんの表情がほろりと崩れた。俺の右手を握りながら……体を預けるように近付いてくる。


「えへへ、剣晴さん……大好きです……」


 うっわ。死ぬわこれ。可愛すぎる。俺がロリコンだったら心臓破裂してるね。だが、俺はロリコンじゃないから辛うじて生きていた。あぶねぇ。しかし、即死は免れたとはいえ、告げられた激甘なセリフに心臓がバクバクと煩い。こりゃ上手く眠れそうにないな……。


 だから気付かなかった。




 俺の背後で、何かがもぞりと動いたことに。




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