帰宅。二度目の来訪となった結ちゃんはすっかり俺の部屋に馴染んだらしく、戸を開けるなり駆けこんだ。先に結ちゃんにシャワーを浴びせ、俺もさっぱりしてスポドリを飲む。
結ちゃんは扇風機の前に女の子座りをして風を浴びていた。
右の踵には俺が用意したアイシング用の器具を当てている。扇風機に向かって「あ~」と言うのは、俺も子どもの頃よくやったな。
という感想は置いといて、俺はさすがにこの子に言わなければならないことがある。
「結ちゃん、ちょっといいか」
ベッドに腰を掛ける。膝に肘を置いて、口の前で手を絡ませる。
俺の声色が低くなったことで、結ちゃんも何かを感じたのだろう。扇風機とにらめっこしていた顔を体ごと俺に向けてくる。
「なんでしょうか、せんせー」
「あのな……、……」
……いざ強く言うとなると、緊張するな。
どうして緊張しているのか? 俺は間違ったことをしているワケではない。
小学生女児を部屋に滞在させているという現状は置いといて。
口が微かに戦慄く。言葉を紡ごうにもうまく舌が動かない。心臓が苦しい。こんな緊張……剣道に試合では味わったことがない。未知の経験だ。俺はこの子に嫌われたくないのか? だから強く言って、嫌われてしまうことを恐れているのか?
ならば……この子の指導なんか止めた方がいい。
言うべき時に言えないのなら。一時の迷いでこの子の道を誤らせるくらいなら。
剣道を誰かに教えるなんてするべきじゃない──。
「結ちゃん、君は……」
生唾を飲み込み、短く息を吐く。肚を据えた。重ねた指に汗を感じる。
意を決して言おうと息を吸った、瞬間。
ぴんぽーん、と間の抜けた電子音が鳴り響いた。
俺も結ちゃんもびっくりして少し飛び上がる。誰だ全く。
「……仕方ない」
ボリボリと頭を掻きながら、訪ねてきた人物を確認するために戸を開ける。まさかまた先生じゃないだろうな。にしても来る理由あるか?
「はい、どちら様で──」
「こんにちは、雨宮 剣晴さん」
ぺこり、と丁寧な動作で頭を下げたその子は──千虎 奏ちゃん。
「は──……?」
え、なんで……この子が俺の部屋を訪ねて来てるんだ?
「剣晴さんの元で、今日一晩お世話になります。楓先生からお話は通っていると思いますが」
待って。全く知らねぇ。聞いてねぇぞそんなの。
「せんせー……? 誰ですか?」
背後では結ちゃんが覗きに来た。いかん、これはマズい。ただでさえ現状は水と油、混ぜるな危険なこの二人を接触させるワケにはいかない。核爆発が起きる気がする。
それだけならまだしも、この状況、小学生女子が高校生男子の部屋に滞在しているという状況。傍から見たらどう映る。言うまでもない。一一〇番待ったなしだ。
いや、事情は事情だとしても。待てよ。先生はちゃんと奏ちゃんに俺と結ちゃんのことは伝えているのだろうか。もしそうなら見せてもいい? でも先生は俺に奏ちゃんがやってくることを伝えてこなかった。信じていいのか楓先生。
「せんせー? ……──まさか、女の子ですか?」
可愛らしく聞いてきたと思ったら、一気に声色が凍り付いた。雪女も裸足で逃げ出すほど底冷えする声だ。
「誰ですか? 女の子ですか? 可愛いんですか? ゆいの知らない女の子なんですね? 隠していた女がいるんですね? そうなんですね?」
コキ、コキ、コキ、コキ、と一言発するたびに首の骨が鳴るような音が聞こえてくる。
怖いッ! 怖すぎるッ! 楓先生の笑顔より怖いッ! 振り返るのが恐ろしいッ!
「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない」
薄い氷に罅が走るような音を響かせながら、結ちゃんが俺の方にゆっくりと……本当にゆっくりとやってくる。アイシング用の器具のせいで歩きづらかろうがお構いなしだ。振り返っちゃいけない。振り返った瞬間俺は死ぬ。ホラー映画のお決まりだ。
「? 剣晴さん? 中に誰かいるんですか?」
はいオワタ。やっぱり奏ちゃんは俺と結ちゃんの現状を知らなかった。
楓先生……いや、楓この野郎。もう敬語とか今は知ったことか。
俺と奏ちゃんに、ちゃんと説明しとけや。
「せんせー……?」「剣晴さん?」
ひょい、と。二人が俺の脇から顔を覗かせる。
鏡合わせのようにご対面。
「「き、きゃああああああああああああああああああああああッッ!」」
幼女二人の事件性満載な悲鳴が、むさくるしい男子部屋に木霊した。